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「太平記」新将軍京落事(その3)

同じき七日南方の大将河を越えて、軍評定のありけるに、細川相摸のかみ進み出でて申されける様は、「京都の勢の分際ぶんせいをも、兵の気色をも皆見透したる事にて候へば、この合戦においては、曲げて清氏きようぢまうす旨に任せられ候へ。先づ清氏後陣ごぢんに控へて、山崎へ打ちとほり候はんに、忍常寺に候ふなる佐々木の治部ぢぶ少輔せう、何千騎候ふと言ふとも、よも一矢も射懸け候はじ。山崎を今川伊予の守が固めて候ふなる。これまた一軍ひといくさまでもあるまじき者にて候ふ。洛中の合戦になり候はば、大和・河内・和泉・紀伊国の官軍くわんぐんは、皆徒歩かちだちになつて一面に楯を突きしとみ、楯の陰にやり長刀の打ち物の衆を五六百人づつ揃えて、敵懸からば馬の草脇・太腹突いては跳ね落とさせ落とさせ、一足も前へは進むとも一歩も後ろへ引く気色なくは、敵重ねて駆け入る者候ふべからず。その時石塔刑部卿・赤松彦五郎・清氏一手になつて敵の中を駆け破り、義詮よしあきら朝臣あつそんを目に懸け候ふほどならば、いづくまでか落とし候べき。天下の落居一時が中に定まり候ふべき物を」と申されければ、「この儀まことにさるべし」とて、官軍くわんぐん中島を打ち越へて、都を指して攻め上る。げにも相摸の守の言ひつるに少しも違はず、忍常寺にんじやうじの麓を打ち通るに、佐々木の治部ぢぶ少輔せうは時の侍所なり。甥二人ににんまで当国にて楠木に討たれぬ。




同じ康安かうあん元年(1361)十二月七日に南方の大将(楠木正儀まさのり)は川(淀川)を越えて、軍評定([合戦の前に行う軍議])がありました、細川相摸守(細川清氏きようぢ)が進み出て申すには、「京都の勢の分際([数])も、兵の勢いも皆見抜いております、この合戦においては、曲げてこの清氏が申すにお任せください。まずこの清氏は後陣に控えて、山崎を通ります、忍常寺(現兵庫県川西市にある寺)に構える佐々木治部少輔(佐々木高秀たかひで)が、たとえ何千騎あろうとも、よもや一矢さえ射懸けることはありません。山崎は今川伊予守(今川貞臣さだおみ)が固めております。これもまた一軍もあるまじき者でございます。洛中の合戦になれば、大和・河内・和泉・紀伊国の官軍は、皆徒歩になって一面に楯を突き並べ、楯の陰には槍長刀の打ち物の衆を五六百人ずつ揃えて、敵が攻め来れば馬の草脇([馬や鹿などの獣の胸先の部分])・太腹を突いてついて跳ね落とせば、一足も前へは進むとも一歩も後ろへ引く気色なくは、重ねて駆け入る敵はおりません。その時石塔刑部卿(石塔頼房よりふさ)・赤松彦五郎・この清氏が一手になって敵の中を駆け破り、義詮朝臣(足利義詮。室町幕府第二代将軍)を見つけたならば、わずかも逃げることは叶いますまい。天下の落居は一時の内に定まりましょう」と申されたので、「なるほどのう」と申して、官軍は中島を打ち越えて、都を指して攻め上りました。まこと相摸守(細川清氏)が申した通り、忍常寺の麓を打ち通りましたが、佐々木治部少輔(佐々木高秀たかひで)は時の侍所でした。甥二人が当国(摂津国)で楠木(正儀)に討たれました。


続く


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by santalab | 2016-02-05 17:53 | 太平記 | Comments(0)

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