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「太平記」芳賀兵衛入道軍事(その2)

かかるところ、上杉すでに左馬のかみの執事になつて鎌倉へ越ゆると聞こへければ、禅可ぜんか道に馳せ向かつて戦はんとて、上野かうづけ板鼻いたばなに陣を取つてぞ待たせける。しかれども上杉、上野の国へも入らぬ先に、左馬の頭のたまひけるは、「何ぞ任雅意加様かやう狼籍らうぜきを致すべし。所存あらば追つて訴詔致すべきところに、合戦のくはた奇怪きくわいの至りなり。所詮退治たいぢ加ふべし」とて、みづから大勢を率して宇都宮へぞ寄せられける。禅可この事を聞きて、「さらば鎌倉殿と先づ戦はん」とて、我が身は宇都宮にありながら、嫡子伊賀のかみ高貞たかさだ・次男駿河の守八百余騎を差し副へて、武蔵の国へぞ遣はしける。この勢坂東路八十里はちじふり一夜いちやに打つて、六月十七日の辰の刻に、苦林野にがはやしのにぞ着きにける。小塚こつかの上に打ち上がりて鎌倉殿の御陣を見渡せば、東には白旗一揆の勢五千余騎、甲胄の光をかかやかして、明け残る夜の星の如くに陣を張る。西には平一揆たひらいつきの勢三千余騎、戟矛げきぼういきほひすさましくして、陰森いんしんたる冬枯れの林を見るに異ならず。中の手は左馬の頭殿と思えて、二つ引きりやうの旗一流れ朝日に映じて飛揚ひやうせるその陰に、左輔さふ右弼いうひつ厳しく、騎射馳突きしやちとつつはものども三千余騎にて控へたり。




かかるところに、上杉(上杉憲顕のりあき)は左馬頭(足利基氏もとうぢ。足利尊氏の四男)の執事になって鎌倉へ越えると聞こえたので、禅可(芳賀高名たかな)は道に馳せ向かい戦おうと、上野国板鼻(現群馬県安中市)に陣を取っ待ち構えました。けれども上杉(憲顕)が、上野国にも入らぬ前に、左馬頭(基氏)が申すには、「何故我意([自分の思うままにしようとする心持ち])に任せてこのような狼藉を働くのだ。所存あらば追って訴詔をすべきである、合戦を企てるなど怪しからぬ。ならば退治するまで」と申して、自ら大勢を率して宇都宮(現栃木県宇都宮市)に寄せました。禅可(高名)はこれを聞いて、「ならば鎌倉殿(基氏)とまず戦おう」と、我が身は宇都宮に残り、嫡子伊賀守高貞(芳賀高貞)・次男駿河守(芳賀高家たかいへ)に八百余騎を差し添えて、武蔵国に向かわせました。軍勢は坂東路八十里を一夜に打って、六月十七日の辰の刻([御前午前八時頃])には、苦林野(現埼玉県入間郡毛呂山町)に着きました。小塚の上に打ち上がり鎌倉殿(基氏)の陣を見渡せば、東には白旗一揆([武蔵国と上野国の国人一揆=武士集団])の勢五千余騎が、甲胄の光を輝かして、明け残る夜の星のように見えて陣を張っていました。西には平一揆([武蔵国の秩父氏一族、相模国の 中村氏一族、その他常陸国・上野国の平氏などが血縁を軸に集結した関東有数の国人一揆])の勢三千余騎が、戟矛([武器])を手に手に持って、陰森([樹木が生い茂って暗いさま])の冬枯れの林を見るようでした。中の手は左馬頭殿(基氏)と思えて、二引両(足利氏の家紋)の旗が一流れ朝日に映じてはためくその陰には、左輔右弼([君主の左右にいて、政治を助ける臣])の守り厳しく、騎射馳突の兵([騎兵])どもが三千余騎で控えていました。


続く


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by santalab | 2016-02-06 08:49 | 太平記 | Comments(0)

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