左京の大夫すでに大友が館に着きぬと聞こへければ、菊池肥後の守武光、敵に勢の付ぬ先に打ち散らせとて、菊池彦次郎・城の越前の守・宇都宮・岩野・鹿子木民部の大輔・下田帯刀以下勝れたる兵五千余騎を差し添へて、探題左京の大夫を攻めん為に、九月二十三日豊後の国へ発向す。探題左京の大夫これを聞くに、「そもそも我九州静謐の為に被下たる者が、敵の城へ不寄して、かへつて敵に被寄たりと京都に聞こへんずる事、先づ武略の不足に相似たり。されば敵を城にて相待つまでもあるまじ。路次に馳せ向かつて戦へ」とて、探題の子息松王丸の、いまだ幼稚にて今年十一歳に成りけるを大将にて、大宰小弐・舎弟筑後の次郎・同じき新左衛門の尉・宗像の大宮司・松浦の一党都合その勢七千余騎にて、筑前の国長者原と云ふ所に馳せ向かつて、路を遮つてぞ待ち懸けたる。
左京大夫(斯波氏経)が大友(大友氏時)の館に着いたと聞こえたので、菊池肥後守武光(菊池武光。菊池氏第十五代当主)は、敵に勢が付く前に打ち散らせと、菊池彦次郎(菊池武義)・城越前守・宇都宮・岩野・鹿子木民部大輔・下田帯刀以下優れた兵五千騎余りを添えて、九州探題左京大夫(斯波氏経)を攻めるために、九月二十三日に豊後国へ発向しました。九州探題左京大夫(斯波氏経)はこれを聞いて、「そもそもわしは九州静謐([世の中が穏やかに治まっていること])のために下されたのだ、敵の城を攻める前に、敵に攻められたと京都に聞こえれば、武略のない者と笑われることだろう。敵を城で待つまでもない。道中に急ぎ向かって戦え」と申して、九州探題(斯波氏経)の子松王丸は、まだ幼く十一歳になったところでしたが大将にして、大宰小弐(少弐頼尚)・弟の筑後次郎・同じく新左衛門尉・宗像大宮司(宗像氏経?)・松浦党([松浦地方に割拠し、九州北西部に勢力をもった武士団])を合わせてその勢七千騎余りで、筑前国の長者原(現大分県玖珠郡九重町)という所へ馳せ向かい、路をふさいで待ち構えました。
(続く)