この時熊野山の別当四郎法橋道有が、いまだに薬師丸とて童体にて御伴したりけるを、将軍呼び寄せ給ひて、忍びやかにのたまひけるは、「今度京都の合戦に、御方毎度打ち負けたる事、全く戦ひの咎にあらず。つらつら事の心を案ずるに、ただ尊氏ひたすら朝敵たる故なり。されば如何にもして持明院殿の院宣を申し賜はつて、天下を君与君の御争ひになして、合戦を致さばやと思ふなり。御辺は日野の中納言殿に所縁ありと聞き及べば、これより京都へ帰り上つて、院宣を伺ひ申して見よかし」と仰されければ、薬師丸、「畏つて承り候ふ」とて、三草山より暇申して、すなはち京へぞ上りける。
この時熊野山の別当四郎法橋道有は、まだ薬師丸と申して童体([子供の姿])で伴をしていましたが、将軍(足利尊氏)は呼び寄せて、忍んで申すには、「今度の京都の合戦に、味方が毎度打ち負けたのは、まったくもって戦いに過失があったわけではない。よくよく原因を考えると、ただこの尊氏が朝敵であるからに他ならぬ。ならば如何にもして持明院殿(北朝初代、光厳院)の院宣を申し賜わって、天下を君に与えるの争いになして、合戦を致そうと思うておる。お前は日野中納言殿(柳原資明?日野資朝の弟)に所縁があると聞いておる、これより京都に帰り、院宣を下されるよう申せ」と命じたので、薬師丸は、「畏り承りました」と申して、三草山(現大阪府豊能郡能勢町と兵庫県川辺郡猪名川町の境にある山)より暇を申して、急ぎ京に上りました。
(続く)