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「太平記」長崎高重最期合戦の事(その2)

その後ろ影を相摸入道にふだう遥かに見送り給ひて、これや限りなるらんと名残りしげなるていにて、泪ぐみてぞ被立たる。長崎次郎よろひをば脱ぎ捨て、すぢかたびらの月日推したるに、精好せいがう大口おほくちの上に赤糸の腹巻着て小手こてをば不差、兎鶏とけいと云ひける坂東一の名馬に、金具かながひの鞍に小総こふさしりがひ懸けてぞ乗つたりける。これを最後と思ひ定めければ、先づ崇寿寺そうじゆじの長老南山和尚なんざんをしやうに参じて、案内まうしければ、長老威儀ゐぎを具足して出で合ひ給へり。方々はうばうの軍急にして甲冑を帯したりければ、高重たかしげは庭に立ちながら、左右さいういふして問つていはく、「如何なるこれ勇士恁麼いんも」。和尚答へていはく、「吹毛すゐもうきふに用ゐて不如前」。高重この一句を聞いて、問訊もんじんして、門前より馬引き寄せ打ち乗つて、百五十騎のつはものを前後に相随あひしたがへ、笠符かさじるしかなぐり棄て、しづかに馬を歩ませて、敵陣に紛れ入る。その心ざし偏へに義貞に相近付かば、つて勝負を決せん為なり。高重旗をも不指、打ち物の鞘をはづしたる者なければ、源氏の兵、敵とも不知けるにや、をめをめと中を開いて通しければ、高重、義貞に近付く事わづかに半町計りなり。




その後ろ影を相摸入道(北条高時たかとき。鎌倉幕府第十四代執権)は遥かに見送って、これを限りと名残り惜しげに、涙ぐんで立っていました。長崎次郎(長崎高重たかしげ)は鎧を脱ぎ捨て、筋([細長い縦縞])の帷子([裏を付けない衣服])に月日を付けたものに、精好([精好織り]=[公家や武家に用いられた絹織物の一])の大口([袴])の上に赤糸の腹巻([鎧])を着て小手は付けず、兎鶏という坂東一の名馬に、金具([金・銀・スズ・鉛などの薄い金属板を文様に切ったもの。また、それを漆面にはめこみ加飾する技法])の鞍に小総鞦(上総鞦?種々の色糸を用いた美麗な鞦=馬の尾の下から後輪しづわ四緒手しをでにつなげる緒)を懸けて乗りました。これを最後と覚悟を決めてのことでしたので、まず崇寿寺(現神奈川県鎌倉市にあった寺院。北条高時が創建)の長老南山和尚に参じて、名乗ると、長老は威儀([袈裟につけた平絎ひらぐけ=平ら。の紐])を付けて出て来ました。方々の軍が迫り甲冑を帯していましたので、高重は庭に立ったまま、左右に揖([両手を胸の前で組み合わせて礼をする])して訊ねるには、「勇士とは何ぞや([恁麼]=[疑問を表す])」。和尚はこれに答えて、「吹毛([吹きかけた毛も断ち切るほどの、よく切れる剣])を用いるそなたこそ勇士です」。高重はこの一句を聞いて、問訊([禅宗の礼法で、合掌低頭すること])して、門前より馬を引き寄せ打ち乗ると、百五十騎の兵を前後に従えて、笠符をかなぐり棄て、ゆっくり馬を歩ませて、敵陣に紛れ入りました。その思いは義貞(新田義貞)に近付いて、打ち懸かり勝負を決するためでした。高重は旗を差さず、打ち物([太刀])の鞘を外した者もいませんでしたので、源氏の兵は、敵とは思わなかったか、恥とも思わず中を開いて通したので、高重は、義貞のわずか半町ばかりに近付きました。


続く


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by santalab | 2016-02-11 07:54 | 太平記 | Comments(0)

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