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「太平記」細川相摸守討死事付西長尾軍事(その3)

相摸のかみの陣は白峯しらみねの麓、右馬のかみじやう歌津うたつなれば、そのあはひわづかに二里なり。寄せやする待ちてや戦ふと、互ひに時をうかがうて数日すじつを送りけるほどに、右馬の頭の勢、大略遠国の者どもなれば、兵粮に詰まりて窮困す。かくては右馬の頭は讃岐の国にはこらへじと見へけるほどに、結句備前の飽浦あくら薩摩のごんの守信胤のぶたね宮方になつて、海上に押し浮かめ、小笠原美濃の守、相摸の守に同心して、渡海の路を差し塞ぎける間、右馬の頭の兵は日々に減じて落ち行き、相摸の守の勢は国々に聞こへておびたたし。ただ魏の将司馬仲達しばちゆうたつが、蜀の討つ手に向かつて、戦はで勝つ事を得たりけん、そのはかりことに相似たり。




相摸守(細川清氏きようぢ)の陣は白峯(現香川県坂出市にある白峯寺)の麓、右馬頭(細川頼之よりゆき)の城は歌津(現香川県綾歌郡宇多津町)出来るしたので、その間はわずか二里でした。寄せようか待ち受けて戦うかと、互いに時を窺って数日を送るほどに、右馬頭(頼之)の勢は、ほとんどが遠国の者どもでしたので、兵粮が不足して窮困するようになりました。こうして右馬頭は讃岐国に留まることは困難と思えるところに、備前飽浦薩摩権守信胤(飽浦信胤)が宮方となって、海上に舟を押し浮かべ、小笠原美濃守も、相摸守(清氏)に同心して、渡海の路を塞いだので、右馬頭(頼之)の兵は日々に減って落ち行き、相摸守の勢は国々に聞こえて大勢となりました。ただ魏の将司馬仲達(司馬)が、蜀の討手に向かって、戦わずに勝つことを得た、謀に似たようなものでした(諸葛亮孔明の死によって、蜀軍は撤退した。魏軍はこれを追撃したが、蜀軍が反撃の構えを示したため、仲達は孔明がまだ死んでおらず、何か策略があるのだろうと勘ぐり退却したという。『死せる孔明、生ける仲達を走らす』)。


続く


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by santalab | 2016-02-11 08:13 | 太平記 | Comments(0)

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