八月十六日の夜半ばかりに、和田・楠木、元の陣になほ控へたる体を見せん為に、殊さら篝を多く焚き続けさせて、これより二十余町上なる三国の渡より打ち渡して、昆陽野・富松・瓦林へ勢を差し回して、敵を川へ追ひはめんと取り籠めたり。京勢はこれを夢にも知らねば、徒らに川向かひに敵いまだ控へたりと肝繕ひして居たるところに、昆陽野・富松に当て、所々に火燃え出でて、煙の下に旗の手数多見へたり。これまでもなほ敵川を越へたりとは思ひも不寄、焼亡は御方の軍勢どもの手過ちにてぞあるらんと油断して、明け行くままに後ろを遥かに見渡したれば、十余箇所に叢雲立て控へたる勢、旗どもは、皆菊水の紋なり。「さては敵早や川を渡してけり。平場の懸け合ひは敵ふまじ、城へ引き籠もつて戦へ」とて、浄光寺の要害へ引つ返さんとすれば、敵早や入れ替はりたりと思えて、勝ち鬨を作る声、浄光寺の内に聞こへたり。
八月十六日の夜半ほどに、和田(和田正武)・楠木(楠木正儀。正成の三男)は、元の陣になおも控えたるように見せかけて、わざと篝火を多く焚き続けさせて、ここから二十余町上流の三国の渡(現大阪市淀川区)より神崎川を渡り、昆陽野(現兵庫県伊丹市)・富松(現兵庫県尼崎市)・瓦林(現兵庫県西宮市)に勢を進めて、敵を川へ追い落とそうと取り籠めました。京勢(北朝)はこれを夢にも知らず、川向かいに敵がまだ控えていると心積もりしているところに、昆陽野・富松から、所々に火が出て、煙の下に旗が数多く見えました。それでもなお敵が川を越えたとは思いも寄らず、焼亡は味方の軍勢の手過ちに違いないと油断して、明け行くままに後ろを遥かに見渡せば、十余箇所に叢雲を立てたように控えた勢、旗は、皆菊水(楠木氏の家紋)の紋でした。「さては敵はすでに川を渡ったぞ。平場で駆け合いの戦をすれば敵うまい、城へ引き籠もって戦え」と、浄光寺(現兵庫県尼崎市にある寺)の要害へ引き返そうとしましたが、敵はすでに入れ替わったと思えて、勝ち鬨を作る声が、浄光寺の中から聞こえました。
(続く)