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「太平記」和田楠与箕浦次郎左衛門軍の事(その3)

これを見て中白なかじろ一揆の勢三百余騎は、国人なれば案内を知つて、いつの間にか落ち失せけん一騎も不残留、ただ守護の家人わづか五十ごじふ余騎、思ひ切つたるていに見へて、二箇所に控へて居たりける。両所に控へたる勢、一所に打ち寄らんとしけるが、敵の大勢に早や中を隔てられて不叶ければ、箕浦次郎左衛門じらうざゑもん東を指して落ち行くに、両方深田なる細堤ほそづつみを、敵立ち切りてこれを討ち留めんと、行く先をさへぎり道をぎつて、取り籠むる事度々に及べり。されども箕浦懸け破つてはとほり取つてかへしては戦ひけるに、一番に瓦林弾正左衛門だんじやうざゑもんは討たれぬ。これを見て芥川あくたがは右馬のじよう、すげなう引き分かれて落ちて行かんとしけるを、「日来の口には似ぬ者かな」と箕浦にことばを被懸、一所に打ち寄つて相伴あひともなふ。箕浦これを案内者にて、数箇所すかしよの敵の中を遁れ出で、都を指してぞ上りける。下の手に控へたる者どもは、落ち方を失つて呆然ばうぜんとして居たるを、木村兵庫ひやうごの允泰則、「つはものどものおきて、面々存知ぞんぢの前なれども、戦難儀なる時、死なんとすれば生き、生きんとすれば死ぬる者にて候ふぞ。ただ幾度いくたびも敵のなき方へ引かで、敵の大勢控へたらん所へ懸け入つて戦はんに、討たるれば元よりの儀、討たれずは懸け抜けて、西を指して落ちて行かんに、敵もさすが命を捨てては、さのみ長追ひをばし候はんや。と云ふところげにもと思はば、泰則に続けや人々」と云ふままに、浄光寺前に百騎ばかり控へたる敵の方へ、馬を引つ返して歩ませ行く。




これを見て中白一揆([一揆]=[小領主たちの同志的な集団])の勢三百余騎は、国人でしたので土地勘があったので、いつの間に落ち失せたのか一騎も残り留まる者はありませんでした、ただ守護(佐々木道誉)の家人わずか五十余騎が、覚悟を決めて、二箇所に控えるだけでした。両所に控えた勢は、一所に打ち寄せようとしましたが、敵の大勢に早くも中を隔てられて叶わず、箕浦次郎左衛門(箕浦俊定としさだ)は東を指して落ち行くところを、両方深田の細堤を、敵が立ち切ってこれを討ち留めようと、行く先を遮り道を横切り、取り籠めること度々に及びました。けれども箕浦(俊定)は駆け破って通っては取って返して戦って、一番に瓦林弾正左衛門が討たれました。これを見て芥川右馬允は、情けなくも引き別れて落ちて行こうとしたので、「日頃大口を聞いておったが」と箕浦(俊定)に言葉をかけられて、一所に打ち寄って供に付きました。箕浦はこの者を案内者にして、数箇所の敵の中を遁れ出て、都を指して上りました。下の手に控えた者どもは、落ち先を失って呆然としていましたが、木村兵庫允泰則が、「兵どもの掟を、面々は知っておるであろうが、戦に難儀した時、死のうとすれば生き、生き延びようとすれば死ぬものぞ。ただ幾度も敵のいない方へ引かず、敵が大勢控えた所へ駆け入って戦えば、討たれるのは元よりのこと、討たれなかったら駆け抜けて、西を指して落ち行けば、敵もさすが命を捨ててまで、長追いはしないものよ。と言う通りと思うぞ、この泰則に続け者どもよ」と言うままに、浄光寺前に百騎ばかり控えたる敵の方へ、馬を引き返して進みました。


続く


by santalab | 2016-02-11 21:27 | 太平記

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