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「太平記」高時並一門以下於東勝寺自害の事(その4)

庭上・門前に並居なみゐたりけるつはものどもこれを見て、あるひはみづから腹掻き切つてほのほの中へ飛び入るもあり、あるひは父子兄弟差し違へ重なり臥すもあり。血は流れて大地にあふれ、漫々として洪河こうがの如くなれば、かばね行路かうろに横たはつて累々るゐるゐたる郊原かうげんの如し。死骸は焼けて見へねども、後に名字をたづぬれば、この一所にて死する者、すべ八百七十はつぴやくしちじふ余人なり。この外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞き伝へ聞き伝へ泉下に恩をはうずる人、世上に促悲を者、遠国ゑんごくの事はいざ不知、鎌倉中かまくらぢゆうかんがふるに、総て六千余人なり。嗚呼ああこの日いかなる日ぞや。元弘三年五月二十二日とまうすに、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐ちつくわい一朝いつてうに開くる事を得たり。




庭上・門前に並居る兵どもはこれを見て、あるいは自ら腹を掻き切って炎の中へ飛び入る者もあり、あるいは父子兄弟刺し違え重なり臥す者もいました。血は流れて大地に溢れ、漫々としてまるで洪河のようでした。屍は行路に横たわって累々たる郊原([原野])のようでした。死骸は焼けて残りませんでしたが、後に名を尋ねれば、この一所で死ぬ者は、八百七十余人に及びました。この外門葉([一族])・恩顧の者、僧俗・男女を問わず、聞き伝え聞き伝え泉下に恩を報ずる人は、世上に悲しむ者は、遠国のこと知らず、鎌倉中を鑑みれば、六千余人でした。ああこの日はなんという日だったのでしょう。元弘三年(1333)五月二十二日に、平家(北条氏)九代の繁昌は一時に滅亡して、源氏は多年の蟄懐([心中の不満])を一朝に開きました。


続く


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by santalab | 2016-02-20 08:53 | 太平記 | Comments(0)

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