五大院の右衛門は、加様にしてこの人をば賺し出だしぬ。我と打つて出ださば、年来奉公の好を忘れたる者よと、人に指を被差つべし。便宜好からんずる源氏の侍に討たせて、勲功を分けて知行せばやと思ひければ、急ぎ船田入道が許に行きて、「相摸の太郎殿の在所をこそ、委しく聞き出でて候へ、他の勢を不交して、打つて被出候はば、定めて勲功異他候はんか。告げ申し候ふ忠には、一所懸命の地を安堵仕る様に、御吹挙に預り候はん」と云ひければ、船田入道、心中には悪き者の云ひ様かなと乍思、「先づ子細非じ」と約束して、五大院の右衛門の尉諸共に、相摸太郎の落ち行きける道を遮つてぞ待たせける。相摸太郎道に相待つ敵ありとも不思寄、五月二十八日曙に、浅ましげなる窶れ姿にて、相摸河を渡らんと、渡し守を待つて、岸の上に立ちたりけるを、五大院の右衛門余所に立つて、「あれこそ、すは件の人よ」と教ければ、船田が郎等三騎、馬より飛んで下り、透き間もなく生け捕り奉る。
五大院右衛門(五大院宗繁)は、こうしてこの人(北条邦時。鎌倉幕府第十四代執権、北条高時の長男)を騙して宿所から出しました。我と打って出れば、年来奉公の好を忘れた者よと、人に後ろ指を指されるであろう。。懇意にしている源氏の侍に討たせて、勲功を分けて知行しようと思い、急ぎ船田入道が(船田義昌)の許を訪ねて、「相摸太郎殿(北条邦時)の在所を、詳しく聞き出しました。他の勢を交えず、打って出られたならば、きっと勲功は格別ではありませんか。告げ申す忠としまして、一所懸命([領地])の地を安堵いただけますよう、ご吹挙([推薦])いただけませんか」と言えば、船田入道は、心中では腹黒い者の言い様かなと思いながらも、「任せておけ」と約束して、五大院右衛門尉(五大院宗繁)とともに、相摸太郎の落ち行く道を遮って待ちました。相摸太郎(北条邦時)は道で待ち懸ける敵がいるとは思い寄らず、五月二十八日曙に、みすぼらしいやつれ姿で、相模川(現神奈川県中央部を流れて相模湾に注ぐ川)を渡ろうと、渡し守を待って、岸の上に立っていましたが、五大院右衛門は余所に立って、「あれこそ、わたしが申した人です」と教えたので、船田(義昌)の郎等([家来])三騎は、馬から飛んで下り、あっと言う間に生け捕りました。
(続く)