これのみならず、朱雀院の御宇承平五年に、将門と言ひける者東国に下つて、相馬郡に都を立て、百官を召し仕うて、自ら平親王と号す。官軍挙つてこれを討たんとせしかども、その身皆鉄身にて、矢石にも傷られず剣戟にも痛まざりしかば、諸卿僉議あつて、にはかに鉄の四天を鋳奉て、比叡山に安置し、四天合行の法を行はせらる、故に天より白羽の矢一筋降つて、将門が眉間に立ちければ、遂に俵藤太秀郷に首を捕られてけり。その首獄門に懸けて晒すに、三月まで色不変、眼をも塞がず、常に牙を噛みて、「斬られし我が五体いづれの所にかあるらん。ここに来たれ。首継いで今一軍せん」と夜な夜な呼ばはりける間、聞く人これを不恐言ふ事なし。時に道過ぐる人これを聞きて、
将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が 謀にて
と詠みたりければ、この首からからと笑ひけるが、眼たちまちに塞がつて、その
屍遂に枯れにけり。
これのみならず、朱雀院(第六十一代天皇)の御宇承平五年(935)に、将門(平将門)と言う者が東国に下って、相馬郡(現福島県北東部)に都を立て、百官を召し仕えて、自ら平親王と名乗りました。官軍は挙って将門を討とうとしましたが、その身はすべて鉄身にして、矢石にも傷を負うことなく剣戟に切られることもありませんでした、諸卿は僉議して、急ぎ鉄の四天を鋳て、比叡山に安置し、四天合行法([密教で、四天王を本尊として同一の壇で行う修法])を行なわせました、すると天より白羽の矢が一筋降って、将門の眉間に立ったので、遂に俵藤太秀郷(藤原秀郷)によって首を捕られました。その首を獄門に懸けて晒すと、三箇月色は変わらず、目も塞がず、歯を食いしばり、「斬られた我が五体はどこにあるのだ。ここに集まれ。首を継いでもう一軍するぞ」と夜な夜な叫んだので、聞く人はこれを恐れずということはありませんでした。時に道を過ぎる人がこれを聞いて、
将門はこめかみを斬られたのだ、俵藤太の謀によってな。
と詠んだので、将門の首はからからと笑いました、眼はたちまちに塞がって、屍は遂に色を変えました。
(続く)