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「太平記」吉野城軍事(その2)

夜昼よるひる七日が間息をも不続相戦ふに、城中じやうちゆうの勢三百余人討たれければ、寄せ手も八百はつぴやく余人討たれにけり。いはんや矢に当たり石に打たれ、生死しやうじあひだを知らぬ者は幾千万と言ふ数を知らず。血は草芥さうかいを染め、かばね路径ろけいに横たはれり。されども城のてい少しも弱らねば、寄せ手のつはもの多くは退屈してぞ見へたりける。ここにこの山の案内者とて一方へ向かはせたりける吉野の執行しゆぎやう岩菊丸いはぎくまる、己が手の者を呼び寄せてまうしけるは、「東条の大将金沢かなざは右馬の助殿は、すでに赤坂の城を攻め落として金剛山こんがうせんへ向かはれたりと聞こゆ。当山たうざんの事我ら案内者たるに依つて、一方いつぱううけたまはつて向かひたる甲斐かひもなく、攻め落とさで数日すじつを送る事こそ遺恨ゐこんなれ。つらつら事のやうを案ずるに、この城を大手おほてより攻めば、人のみ討たれて落とす事あり難し。推量すゐりやうするに、城の後ろの山金峯山きんぶせんにはけはしきを頼んで、敵さまで勢を置きたる事あらじと思ゆるぞ。物馴れたらんずる足軽の兵を百五十人ひやくごじふにんすぐつて徒立かちだちになし、夜に紛れて金峯山より忍び入り、愛染宝塔あいぜんはうだふうへにて、夜のほのぼのと明け果てん時ときの声を上げよ。城の兵鬨のこゑに驚いて度を失はん時、大手搦め手三方さんぱうより攻め上つて城を追ひ落とし、宮を生け捕り奉るべし」とぞ下知げぢしける。




夜昼七日間息も継がず戦うと、城中の勢三百余人が討たれれば、寄せ手も八百余人が討たれました。言うまでもなく矢に当たり石に打たれ、生死を知らぬ者は幾千万と言ふ数を知りませんでした。血は草芥([雑草とごみ])を染め、屍は路径に横たわりました。けれども城の守りは少しも弱まることなく、寄せ手の兵の多くは退屈([困難にぶつかってしりごみすること])しているように見えました。ここにこの山の案内者として一方に向かわたせた吉野執行岩菊丸は、己が手の者を呼び寄せて申すには、「東条大将金沢右馬助殿(北条貞将さだゆき。ただし左馬助)は、すでに赤坂城(現大阪府南河内郡千早赤阪村)を攻め落として金剛山に向かわれたと聞く。当山のことは我らが案内者であるということで、一方を承って向かった甲斐もなく、攻め落とすことができずに数日を送ることこそ遺恨である。よくよく軍の様子を案ずれば、この城を大手([敵の正面を攻撃する軍勢])で攻めれば、人ばかり討たれて城を落とすことはできぬであろう。思うところ、城の後ろの山金峯山(吉野・大峯)には険しさを頼りにして、敵はそれほど勢を置いておらぬと思うのだ。軍馴れした足軽の兵を百五十人選って徒立ちにし、夜に紛れて金峯山より忍び入り、愛染宝塔(愛染宝塔院。かつて現奈良県吉野郡吉野町の青根ヶ峰にあった安禅寺)の上で、夜がほのぼのと明けようとする時に鬨の声を上げよ。城の兵は鬨の声に驚いてあわて騒ぐ時、大手搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])が三方より攻め上って城を追い落とし、大塔宮(護良もりよし親王)を生け捕れ」と下知しました。


続く


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by santalab | 2016-03-30 08:08 | 太平記 | Comments(0)

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