義光言葉を荒らかにして、「かかる浅ましき御事や候ふ。漢の高祖滎陽に囲まれし時、紀信高祖の真似をして楚を欺かんと乞ひしをば、高祖これを許し給ひ候はずや。これほどに云ふ甲斐なき御所存にて、天下の大事を思し召し立ちける事こそうたてけれ。早やその御物の具を脱がせ給ひ候へ」と申して、御鎧の上帯を解き奉れば、宮げにもとや思し召しけん、御物の具・鎧直垂まで脱ぎ替へさせ給ひて、「我もし生きたらば、汝が後生を訪ふべし。共に敵の手に懸からば、冥途までも同じ岐に伴ふべし」と被仰て、御涙を流させ給ひながら、勝手の明神の御前を南へ向かつて落ちさせ給へば、義光は二の木戸の高櫓に上がり、遥かに見送り奉つて、宮の御後ろ影の幽かに隔たらせ給ひぬるを見て、今はかうと思ひければ、櫓の狭間の板を切り落として、身を露はにして、大音声を揚げて名乗りけるは、「天照太神の御子孫、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐の天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡ぼされ、恨みを泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置いて、汝らが武運忽ちに尽きて、腹を切らんずる時の手本にせよ」と云ふ侭に、鎧を脱いで櫓より下へ投げ落とし、錦の鎧直垂の袴許りに、練貫の二つ小袖を押膚脱いで、白く清げなる膚に刀を突き立て、左の脇より右の側腹まで一文字に掻き切つて、腸掴んで櫓の板に投げ付け、太刀を口に咥へて、うつ伏しに成つてぞ臥したりける。
義光(村上義光)は言葉を荒げて、「そのような事をされて何になりましょう。漢の高祖(劉邦。前漢の初代皇帝)が滎陽(現河南省滎陽市)で(項羽に)囲まれた時、紀信(中国の秦末の武将。漢の劉邦に仕えた)が高祖の真似をして楚を欺こうと請うたのを、高祖はこれを許したのではありませんか。これほどに申す甲斐もない所存([考え])で、天下の大事を思い立たれたとは嘆かわしいことでございます。早くその物の具([武具])を脱がれなさいませ」と申して、鎧の上帯([鎧 ・腹巻き・胴丸の類の胴先につける帯])を解けば、大塔宮(護良親王)ももっともなことに思われたか、物の具・鎧直垂([鎧の下に着る衣])まで脱ぎ替えて、「我がもし生き永らえることができたならば、お主の後生を弔おうぞ。共に敵の手に懸かれば、冥途までも同じ道を一緒に参ろう」と申されて、涙を流しながら、勝手明神(現奈良県吉野郡吉野町にある勝手神社)の前を南へ向かって落ちて行くと、義光は二の木戸の高櫓に上がり、遥かに見送って、大塔宮の後ろ姿が見えなくなったのを見て、今はその時よと思えば、櫓の狭間([ 城壁や櫓などに設け、外をうかがい矢弾を放つための小窓])の板を切り落として、姿を露わにして、大音声を上げて名乗るには、、「天照太神の御子孫、神武天皇(初代天皇)より九十五代の帝、後醍醐天皇(第九十六代天皇)の第二皇子一品兵部卿親王尊仁(護良親王)が、逆臣のために亡ぼされ、恨みを泉下([あの世])において報いるために、只今自害する有様を見置いて、汝らが武運たちまちに尽きて、腹を切る時の手本にせよ」と言うままに、鎧を脱いで櫓より下へ投げ落とし、錦の鎧直垂の袴に、練貫([縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物])の二つ小袖([小袖を重ね着すること])を押し肌脱いで([衣服を脱いで,上半身を現す])、白く清げなる肌に刀を突き立て、左の脇より右の側腹([脇腹])まで一文字に掻き切って、腸を掴んで櫓の板に投げ付け、太刀を口に咥えて、うつ伏しに臥しました。
(続く)