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「太平記」吉野城軍事(その6)

義光よしてる言葉を荒らかにして、「かかる浅ましき御事や候ふ。漢の高祖かうそ滎陽けいやうに囲まれし時、紀信きしん高祖の真似をして楚を欺かんと乞ひしをば、高祖これを許し給ひ候はずや。これほどに云ふ甲斐かひなき御所存にて、天下の大事を思し召し立ちける事こそうたてけれ。早やその御物の具を脱がせ給ひ候へ」とまうして、御よろひ上帯うはおびを解き奉れば、宮げにもとや思し召しけん、御物の具・鎧直垂よろひひたたれまで脱ぎ替へさせ給ひて、「我もし生きたらば、なんぢ後生ごしやうとぶらふべし。共に敵の手に懸からば、冥途までも同じちまたに伴ふべし」と被仰て、御涙を流させ給ひながら、勝手の明神みやうじん御前おんまへを南へ向かつて落ちさせ給へば、義光は二の木戸の高櫓に上がり、遥かに見送り奉つて、宮の御後ろ影の幽かに隔たらせ給ひぬるを見て、今はかうと思ひければ、櫓の狭間さまの板を切り落として、身をあらはにして、大音声だいおんじやうを揚げて名乗りけるは、「天照太神あまてらすおほみかみの御子孫、神武天皇てんわうより九十五代の帝、後醍醐の天皇第二の皇子一品兵部卿いつぽんひやうぶきやう親王しんわう尊仁そんにん、逆臣の為に亡ぼされ、恨みを泉下せんかに報ぜん為に、只今自害する有様見置いて、汝らが武運忽ちに尽きて、腹を切らんずる時の手本にせよ」と云ふ侭に、鎧を脱いで櫓より下へ投げ落とし、錦の鎧直垂よろひひたたれの袴許りに、練貫ねりぬきの二つ小袖を押膚脱おしはだぬいで、白く清げなる膚に刀を突き立て、左の脇より右の側腹そばはらまで一文字に掻き切つて、はらわた掴んで櫓の板に投げ付け、太刀を口に咥へて、うつ伏しに成つてぞ臥したりける。




義光(村上義光)は言葉を荒げて、「そのような事をされて何になりましょう。漢の高祖(劉邦。前漢の初代皇帝)が滎陽(現河南省滎陽市)で(項羽に)囲まれた時、紀信(中国の秦末の武将。漢の劉邦に仕えた)が高祖の真似をして楚を欺こうと請うたのを、高祖はこれを許したのではありませんか。これほどに申す甲斐もない所存([考え])で、天下の大事を思い立たれたとは嘆かわしいことでございます。早くその物の具([武具])を脱がれなさいませ」と申して、鎧の上帯([鎧 ・腹巻き・胴丸の類の胴先につける帯])を解けば、大塔宮(護良もりよし親王)ももっともなことに思われたか、物の具・鎧直垂([鎧の下に着る衣])まで脱ぎ替えて、「我がもし生き永らえることができたならば、お主の後生を弔おうぞ。共に敵の手に懸かれば、冥途までも同じ道を一緒に参ろう」と申されて、涙を流しながら、勝手明神(現奈良県吉野郡吉野町にある勝手神社)の前を南へ向かって落ちて行くと、義光は二の木戸の高櫓に上がり、遥かに見送って、大塔宮の後ろ姿が見えなくなったのを見て、今はその時よと思えば、櫓の狭間([ 城壁や櫓などに設け、外をうかがい矢弾を放つための小窓])の板を切り落として、姿を露わにして、大音声を上げて名乗るには、、「天照太神の御子孫、神武天皇(初代天皇)より九十五代の帝、後醍醐天皇(第九十六代天皇)の第二皇子一品兵部卿親王尊仁(護良親王)が、逆臣のために亡ぼされ、恨みを泉下([あの世])において報いるために、只今自害する有様を見置いて、汝らが武運たちまちに尽きて、腹を切る時の手本にせよ」と言うままに、鎧を脱いで櫓より下へ投げ落とし、錦の鎧直垂の袴に、練貫([縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物])の二つ小袖([小袖を重ね着すること])を押し肌脱いで([衣服を脱いで,上半身を現す])、白く清げなる肌に刀を突き立て、左の脇より右の側腹([脇腹])まで一文字に掻き切って、腸を掴んで櫓の板に投げ付け、太刀を口に咥えて、うつ伏しに臥しました。


続く


by santalab | 2016-04-03 08:41 | 太平記

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