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「太平記」中前代蜂起の事(その1)

今天下一統に帰して、寰中くわんちゆう雖無事、朝敵の余党よたうなほ東国にありぬべければ、鎌倉に探題を一人かでは悪しかりぬべしとて、当今たうぎん第八の宮を、征夷将軍になし奉て、鎌倉にぞ置きまゐらせられける。足利左馬のかみ直義ただよしその執権として、東国の成敗を司れども、法令はふれいふるきを不改。斯かるところに、西園寺さいをんじの大納言公宗きんむねきやう隠謀露顕して被誅給ひし時、京都にて旗を挙げんとくはたてつる平家の余類よるゐども、皆東国・北国に逃げ下つて、なほその素懐そくわいを達せん事を謀る。名越なごや太郎時兼ときかぬには、野尻・井口ゐのくち・長沢・倉満の者ども、馳せ付きける間、越中・能登・加賀の勢ども、多く与力して、無程六千余騎に成りにけり。




天下は統一されて、寰中([国内])には何事も起こりませんでしたが、朝敵の余党はなおも東国に残っていましたので、鎌倉に探題を一人置かないではよろしくないと、当今(第九十六代後醍醐天皇)第八の宮(護良もりよし親王)を、征夷将軍になして、鎌倉に置くことにしました。足利左馬頭直義(足利直義。足利高氏の弟)を執権として、東国の成敗を司りましたが、法令はすべて昔のままでした。やがて、西園寺大納言公宗卿(西園寺公宗)の隠謀が露顕して誅たれた時、京都で旗を上げようと企ていた平家の余類どもは、皆東国・北国に逃げ下って、なほその素懐を達しようと謀略を練っていました。名越太郎時兼(北条時兼)に、野尻・井口・長沢・倉満(倉光)の者どもが、馳せ付いたので、越中・能登・加賀の勢どもの、多くが味方になって、ほどなく六千余騎になりました。


続く


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by santalab | 2016-04-03 09:54 | 太平記 | Comments(0)

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