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「太平記」吉野城軍事(その7)

大手おほて・搦め手の寄せ手これを見て、「すはや大塔おほたふの宮の御自害あるは。我先に御首を給はらん」とて、四方しはうの囲みを解いて一所に集まる。そのあひだに宮は差し違へて、天のかはへぞ落ちさせ給ひける。南よりまはりける吉野の執行しゆぎやうが勢五百余騎、多年の案内者なれば、道をよこぎりかさに廻りて、打ち留め奉らんと取り篭むる。村上彦四郎ひこしらう義光よしてるが子息兵衛蔵人ひやうゑくらうど義隆よしたかは、父が自害しつる時、共に腹を切らんと、二の木戸の櫓の下まで馳せ来たりたりけるを、父おほきに諌めて、「父子の義はさる事なれども、しばらく生きて宮の御先途を見果てまゐらせよ」と、庭訓ていきんを残しければ、力なくしばらくの命を延べて、宮の御供にぞさふらひける。




大手([敵の正面を攻撃する軍勢])・搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])の寄せ手はこれを見て、「なんと大塔宮(護良もりよし親王)が自害されたぞ。我が先に首を賜わろう」と、四方の囲みを解いて一所に集まりました。その間に宮は入れ違いに、天川(現奈良県吉野郡天川村)に落ちて行きました。南より廻っていた吉野の執行の勢五百余騎は、多年の案内者でしたので、道を横切ってかさ(笠?)に回って、打ち止めようと取り囲みました。村上彦四郎義光(村上義光)の子息兵衛蔵人義隆(村上義隆)は、父が自害した時、ともに腹を切ろうと、二の木戸の櫓の下まで馳せ来ましたが、父が大声で諌めて、「父子の義はもっともではあるが、しばらく生きて宮(護良親王)の先途を見果て参らせよ」と、庭訓([家庭での教訓])を残したので、仕方なくしばらくの命を長らえて、大塔宮の供をしました。


続く


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by santalab | 2016-04-04 07:34 | 太平記 | Comments(0)

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