本間孫四郎は、元より将軍家来の者なりしが、去んぬる正月十六日の合戦より新田左中将に属して、兵庫の合戦の時は、遠矢を射て弓勢のほどを顕はし、雲母坂の軍の時は、扇を射て手垂れのほどを見せたりし、度々の振る舞ひ悪ければとて、六条河原へ引き出だして首を被刎けり。山徒の道場坊助注記祐覚は、元は法勝寺の律僧にてありしが、先帝船上に御座ありし時、大衣を脱いで山徒の貌に替へ、弓箭に携さはつて一時の栄華を開けり。山門両度の臨幸に軍用を支へし事、偏へに祐覚が為処なりしかば、山徒の中の張本なりとて、十二月二十九日、阿弥陀が峯にて斬られけるが、一首の歌を法勝寺の上人の方へぞ送りける。
大方の 年の暮れぞ と思ひしに 我が身のはても 今夜成りけり
本間孫四郎(本間重氏)は、元は将軍(足利尊氏)の家来でしたが、去る正月十六日の合戦より新田左中将(新田義貞)に属して、兵庫の合戦の時は、遠矢を射て弓勢のほどを顕わし、雲母坂(修学院=現京都市左京区。から比叡山延暦寺東塔へ抜ける道)の軍の時は、扇を射て手足れ([技芸・武芸などに熟達していること。腕きき])のほどを見せた、度々の振る舞い憎しと、六条河原へ引き出されて首を刎ねられました。山徒の道場坊助注記祐覚(覚応坊)は、元は法勝寺(かつて現京都市左京区にあった寺院)の律僧でしたが、先帝(第九十六代後醍醐天皇)が船上(現鳥取県東伯郡琴浦町)におられた時に、大衣([九条ないし二五条の袈裟。僧の大礼服])を脱いで山徒の姿に替へ、弓箭([弓矢])を持ち一時の栄華を開きました。山門両度の臨幸に軍を支えたのは、ひとえに祐覚の仕業でしたので、山徒の中の張本([悪事などを起こすもと])であると、十二月二十九日に、阿弥陀ヶ峰(現京都市東山区にあった城)で斬られけましたが、一首の歌を法勝寺の上人の方へ送りました。
すでに年も暮れると思っておりましたが、我が身の果ても今夜限りとなりました。
(続く)