赤松は手負ひ・生け捕りの首三百余、宿の河原に切り懸けさせて、また摩耶の城へ引つ返さんとしけるを、円心が子息帥の律師則祐、進み出でて申しけるは、「軍の利は勝つに乗つて逃ぐるを追ふに不如。今度寄せ手の名字を聞くに、京都の勢数を尽くして向かつて候ふなる。この勢ども今四五日は、長途の負け軍にくたびれて、人馬ともに物の用に不可立。臆病神の覚めぬ前に続ひて責むる物ならば、などか六波羅を一戦の中に責め落とさでは候ふべき。これ太公が兵書に出でて、子房が心底に秘せしところにて候はずや」と云ひければ、諸人皆この義に同じて、その夜軈て宿の川原を立つて、路次の在家に火を懸け、その光を手松にして、逃ぐる敵に追つすがうて責め上りけり。
赤松(赤松則村)は手負い・生け捕りの首三百余を、宿の河原に切り懸けさせて、また摩耶城に引き返そうとするところに、円心(則村)の子息帥律師則祐(赤松則祐)が、進み出て申すには、「軍に勝利するには勝つに乗って逃げる敵を追うことに尽きます。今度の寄せ手の名字を聞くに、京都の勢は数を尽くして向かったと思われます。この勢ども今四五日は、長途の負け軍にくたびれて、人馬ともに物の用にも立たないでしょう。臆病神が覚めぬ前に続いて攻めれば、どうして六波羅を一戦のうちに攻め落とせないとこがございましょう。これ太公(太公望)の兵書に書き、子房(張良。秦末期から前漢初期の政治家・軍師)が心底に秘したところではございませんか」と申したので、諸人は皆この義に同じて、その夜たちまち宿の川原を立って、路次の在家に火を懸け、その光を松明にして、逃げる敵を追いかけて京へ攻め上りました。
(続く)