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「太平記」三月十二日合戦の事(その5)

見之飽間あくま九郎左衛門くらうざゑもんじよう・伊東の大輔・川原林かはらばやしの二郎・木寺こでらの相模・宇野の能登のかみ国頼くにより、五騎続ひてさつと打ち入れたり。宇野と伊東は馬強うして、一文字に流れをつて渡る。木寺の相摸は、逆巻く水に馬を被放て、兜の手反てへん計りわづかに浮かんで見へけるが、波の上をや泳ぎけん、みづの底をやくぐりけん、人よりさきに渡り付いて、川の向かうの流れの州に、よろひの水したでてぞ立つたりける。彼ら五人が振る舞ひを見て世の常の者ならずとや思ひけん、六波羅の二万余騎、人馬東西に僻易して敢へて懸け合はせんとする者なし。あまつさへ楯の端しどろに成つて色めき渡る所を見て、「前懸けの御方打たすな。続けや」とて、信濃の守範資のりすけ・筑前の守貞範さだのり真つまつさきに進めば、佐用さよ上月かうつきつはもの三千余騎、一度にさつと打ち入つて、馬筏うまいかだに流れを堰き上げたれば、逆水さかみづ岸に余り、流れ十方に分かれて元の淵瀬は、中々に陸地くがぢを行くが如くなり。三千余騎の兵ども、向かうの岸に打ち上がり、死を一挙のうちかろくせんと、進み勇めるいきほひを見て、六波羅勢叶はじとや思ひけん、未だ戦はざるさきに、楯を捨て旗を引いて、作道つくりみちを北へ東寺を指して引くもあり、竹田川原たけだがはらを上りに、法性寺大路ほふしやうじおほちへ落つるもあり。その道二三十町にさんじつちようが間には、捨てたる物の具地に満ちて、馬蹄の塵に埋没す。




これを見て飽間九郎左衛門尉(飽間光泰みつやす)・伊東大輔・川原林二郎・木寺相模・宇野能登守国頼(宇野国頼)が、五騎続いさっと馬を打ち入れました。宇野と伊東の馬は強く、一文字に流れを切って渡りました。木寺相摸は、逆巻く水に馬から落ちて、兜の手反([天辺])ばかりわずかに浮かんで見えましたが、波の上を泳いだか、水底を潜ったのか、人より前に渡り着いて、川の向こうの流れ州([流れる浮き州])に、鎧から水を滴らせて立っていました。彼ら五人の振る舞いを見て世の常の者ではないと思ったか、六波羅の二万余騎は、人馬を東西に退けてあえて駆け合わそうとする者はいませんでした。その上楯の端は乱れ騒ぐのを見て、「先駆けの味方を討たせるな。続けや」と、信濃守範資(赤松範資。赤松則村のりむらの嫡男)・筑前守貞範(赤松貞範。貞範の弟)が真っ先に進めば、佐用・上月の兵三千余騎も、一度にさっと川に打ち入って、馬筏に流れを堰き上げたので、逆水は岸にあふれ、流れは十方に分かれて元の淵瀬は、まるで陸地を進むようでした。三千余騎の兵どもは、向こう岸に打ち上がり、死を一挙のうちに軽くせんと、進み勇む勢いを見て、六波羅勢は敵わぬと思ったか、戦わぬ前に、楯を捨て旗を巻いて、作道を北へ東寺(現京都市南区にある教王護国寺)を指して引く者もあり、竹田川原(現京都市伏見区)を上って、法性寺大路(大和大路)に落ちる者もいました。その道二三十町の間には、捨てた物の具([武具])が地に満ちて、馬蹄の塵に埋もれました。


続く


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by santalab | 2016-05-01 08:36 | 太平記 | Comments(0)

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