今年の春、筑紫の探題にて将軍より置かれたりける一色左京の大夫直氏・舎弟修理の大夫範光は、菊池肥前の守武光に打ち負けて京都へ上られければ、少弐・大友・島津・松浦・阿蘇・草野に至るまで、皆宮方に従ひ靡き、筑紫九国の内には、ただ畠山治部の大輔が日向の六笠の城に籠もりたるばかりぞ、将軍方とては残りける。これを無沙汰にて差し置かば、今将軍の逝去に力を得て、菊池いかさま都へ攻め上りぬと思ゆる。これ天下の一大事なり。急いで討つ手の大将を下さでは敵ふまじとて、故細川陸奥の守顕氏子息、式部の大夫繁氏を伊予の守になして、九国の大将にぞ下されける。この人先づ讃岐の国へ下り、兵船を揃へ軍勢を集むるほどに、延文四年六月二日にはかに病ひ付きて物狂ひになりたりけるが、自ら口走つて、「我崇徳院の御領を落として、軍勢の兵粮料所に充て行ひしに依つて重病を受けたり。天の攻め八万四千の毛の穴に入つて五臓六腑に余る間、涼しき風に向かへとも盛んなる炎の如く、冷ややかなる水を飲めども沸き返る湯の如し。あら熱や堪へ難や、これ助けてくれよ」と悲しみ叫びて、悶絶僻地しければ、医師・陰陽師の看病の者ども近付かんとするに、あたり四五間の中は猛火の盛りに燃えたる様に熱して、さらに近付く人もなかりけり。
今年の春、筑紫探題([九州探題]=[足利尊氏が鎌倉時代の鎮西探題にならい、九州統轄のために置いたもの])として将軍(足利義詮。室町幕府第二代将軍)より置かれた一色左京大夫直氏(一色直氏)・その弟修理大夫範光(一色範光)は、菊池肥前守武光(菊池武光)に打ち負けて京都へ上ったので(一色直氏とその父範氏が京に逃げ上ったのは1358のことらしい)、少弐(少弐頼尚)・大友(大友氏時)・島津(島津氏久)・松浦・阿蘇(阿蘇惟武)・草野に至るまで、皆宮方(北朝)に従い付き、筑紫九国([九州])の内では、ただ畠山治部大輔(畠山家国)が日向の六笠城(現宮崎県宮崎市)に籠もっていましたが、将軍方(南朝)として残るばかりでした。これを無沙汰([放っておくこと])にしておけば、今将軍(室町幕府初代将軍、足利尊氏)の逝去に力を得て、菊池(武光)は必ずや都に攻め上るだろうと思われました。これは天下の一大事でした。南朝は急ぎ討つ手の大将を下さない訳にはいかないと、故細川陸奥守顕氏(細川顕氏)の子息、式部大夫繁氏(細川繁氏。細川顕氏の子)を伊予守にして、九国の大将として下しました。繁氏は先ず讃岐国(現香川県)に下り、兵船を揃え軍勢を集めましたが、延文四年(1359)六月二日に急に病気になって正気を失いましたが、自ら口走って、「わたしが崇徳院(第七十五代天皇)の御領([皇室所有の土地])を奪い取って、軍勢の兵糧([食料])料所([特定の所用の料にあてるための領地])にあてたために重病を受けたのだ。天の攻めは八万四千の毛の穴に入って五臓六腑([体内])に余るほど、涼しい風に向かえども勢い盛んな炎のように、冷ややかな水を飲んでも湧き帰る湯のようだ。とても体が熱くて堪らない、どうか助けてくれ」と悲しみ叫んで、悶絶僻地([もだえ苦しんでころげ回ること])したので、医師・陰陽師が看病の者として近付こうとしましたが、あたり四五間(約10m)の中は猛火が盛んに燃えたように熱くて、まったく近付く者はいませんでした。
(続く)