主上すでに東坂本に臨幸成つて、大宮の彼岸所に御座あれども、いまだ参ずる大衆一人もなし。さては衆徒の心も変じぬるにやと叡慮を悩まされけるところに、藤本房の英憲僧都参つて、申し出でたる言葉もなく泪を流して大床の上に畏つてぞ候ひける。主上御簾の内より叡覧あつて名字を委しく尋ね仰せらる。さてその後、「硯やある」と仰せられければ、英憲急ぎ硯を召し寄せて御前に差し置く。自ら宸筆を染められて御願書を遊ばされ、「これを大宮の神殿に籠めよ」と仰せ下されければ、英憲畏つて右の方権の禰宜行親を以つてこれを納め奉る。暫くあつて円宗院の法印定宗、同宿五百余人召し具して参りたり。君大きに叡感あつて、大床へ召さる。
主上(南朝初代後醍醐天皇)はすでに東坂本(現滋賀県大津市)に臨幸なって、大宮の彼岸所(現滋賀県大津市にある日吉大社境内の各所に設けられた仏教施設)におられましたが、いまだ参る大衆([僧])は一人もいませんでした。さては衆徒([僧])の心も変わったのかと叡慮を悩ませているところに、藤本房の英憲僧都が参って、申し出す言葉もなく涙を流して大床の上に畏りました。主上は御簾の内より見られて名字を委しく訊ね申されました。その後、「硯はあるか」と申されたので、英憲が急ぎ硯を召し寄せて御前に差し置きました。後醍醐天皇は宸筆([天子の直筆])を染められて願書を書かれて、「これを大宮の神殿に籠めよ」と命じられました、英憲は畏って右方権禰宜行親にこれを納めさせました。しばらくあって円宗院法印定宗が、同宿五百余人を連れて参りました。後醍醐天皇はたいそうよろこんで、大床へ呼びました。
(続く)