東寺より寄せつる御方、早や打ち負けて引き返しけりと思えて、東西南北に敵より外はなし。さらばしばらく敵に紛れてや御方を待つと、六騎の人々皆笠符をかなぐり捨てて、一所に扣へたる処に、隅田・高橋打ち廻つて、「如何様赤松が勢ども、なほ御方に紛れてこの中にありと思ゆるぞ。河を渡しつる敵なれば、馬物の具の濡れぬは不可有。それを験にして組み討ちに打て」と呼ばはりける間、貞範も則祐も中々敵に紛れんとせば悪しかりぬべしとて、兄弟・郎等わづか六騎轡を双べわつと呼いて敵二千騎が中へ懸け入り、ここに名乗りかしこに紛れて相戦ひけり。敵これほどに小勢なるべしとは可思寄事ならねば、東西南北に入り乱れて、同士打ちをする事数刻なり。大敵を謀るに勢ひ久しからざれば、郎等四騎皆所々にて被討ぬ。筑前の守は被押隔ぬ。則祐はただ一騎に成つて、七条を西へ大宮を下りに落ち行きけるところに、印具の尾張の守が郎従八騎追つ懸けて、「敵ながらも優しく思へ候ふ者かな。誰人にてをはするぞ。御名乗り候へ」と云ひければ、則祐馬を閑かに打つて、「身不肖に候へば、名乗り申すとも不可有御存知候ふ。ただ首を取つて人に被見候へ」と云ふ侭に、敵近付けば返し合はせ、敵引けば馬を歩ませ、二十余町が間、敵八騎と打ち連れて心閑かにぞ落ち行きける。
東寺(現京都市南区にある教王護国寺)より寄せた味方は、早くも打ち負けて引き返したと思われて、東西南北は敵ばかりでした。ならばしばらく敵に紛れて味方を待とうと、六騎の人々は皆笠符をかなぐり捨てて、一所に控えているところに、隅田・高橋が打ち廻って、「きっと赤松の勢どもが、味方に紛れてこの中にいると思えるぞ。川を渡った敵である、馬物の具([武具])が濡れぬはずがない。それを目印にして組んで討て」と叫んだので、貞範(赤松貞範。赤松則村の次男)も則祐(赤松則祐。赤松則村の子)も敵に紛れるのはよくないと、兄弟・郎等([家来])わずか六騎轡を並べわっと喚いて敵二千騎の中へ駆け入り、ここに名乗りかしこに紛れて戦いました。敵はこれほど小勢とは思いもしなかったので、東西南北に入り乱って、数刻のあいだ同士討ちをしました。大敵を騙す企みはやがて顕れて、郎等四騎は皆所々で討たれました。筑前守(赤松貞範)は押し隔てられました。則祐はただ一騎になって、七条を西へ大宮を下って落ち行くところに、印具尾張守の郎従八騎が追いかけて、「敵ながら心惹かれる人よ。誰人であられるや。名乗り下され」と言うと、則祐は馬の足を緩めて、「名乗るほどの身ではござらぬあ、名乗ったところで知ってはおられまい。ただ首を取って人に見せるがよかろう」と言うままに、敵が近付けば返し合わせ、敵が引けば馬を歩ませ、二十余町(約2km)の間、敵八騎と打ち連れてゆっくり歩ませて落ち行きました。
(続く)