河野・陶山勝つに乗つて、作道の辺まで追つ駈けけるが、赤松ややもすれば、取つて返さんとする勢ひを見て、「軍はこれまでぞ、さのみ長追ひなせそ」とて、鳥羽殿の前より引つ返し、虜り二十余人、首七十三取つて、鋒に貫いて、朱に成つて六波羅へ馳せ参る。主上は御簾を捲かせて叡覧あり。両六波羅は敷皮に坐して、これを検知す。「両人の振る舞ひいつもの事なれども、殊更今夜の合戦に、方々手を下し命を捨て給はずば、叶ふまじとこそ見へて候ひつれ」と、再三感じて被賞翫。その夜やがて臨時の宣下あつて、河野の九郎をば対馬の守に被成て御剣を被下、陶山の二郎をば備中の守に被成て、寮の御馬を被下ければ、これを見聞く武士、「あはれ弓矢の面目や」と、あるひは羨みあるひは猜んで、その名天下に被知たり。
河野・陶山は勝つに乗って、作道([鳥羽作道]=[平安京の中央部を南北に貫く朱雀大路の入口である羅城門より真南に伸びて鳥羽を経由して淀方面に通じた古代道路])の辺まで追っ駆けましたが、赤松(赤松貞範)はややもすれば、取って返す勢いでしたので、「軍はこれまでぞ、長追いさせるな」と申して、鳥羽殿(現京都市伏見区)の前より引き返し、生け捕り二十余人、首七十三取って、鋒に貫いて、朱になって六波羅へ馳せ参りました。主上(北朝初代光厳天皇)は御簾を巻かせて叡覧されました。両六波羅(北方、北条仲時。南方、北条時益)は敷皮に座して、これを検知しました。「両人の振る舞いはいつものことであるが、とりわけ今夜の合戦に、方々手を下し命を捨てて戦わずば、勝つことはなかったであろう」と、再三感じて褒め讃えました。その夜やがて臨時の宣下があり、河野九郎を対馬守になして御剣を下し、陶山二郎を備中守になして、寮の馬を下賜したので、これを見聞く武士は、「なんという弓矢の面目よ」と、ある者は羨みある者は猜んで、その名は天下に知られるところとなりました。
(続く)