去る三月十二日の合戦に赤松打ち負けて、山崎を指して落ち行きしを、やがて追つ懸けて討つ手をだに下したらば、敵足を溜むまじかりしを、今は何事か可有とて被油断しに依つて、敗軍の兵ここかしこより馳せ集まつて、無程大勢に成りければ、赤松、中院の中将貞能を取り立てて聖護院の宮と号し、山崎・八幡に陣を取り、河尻を差し塞ぎ西国往反の道を打ち止む。これによつて洛中の商買止まつて士卒皆転漕の助けに苦しめり。両六波羅聞之、「赤松一人に洛中を被悩て、今士卒を苦しむる事こそ安からね。去る十二日の合戦の体を見るに、敵さまで大勢にてもなかりけるものを、無云甲斐聞き懼ぢして敵を辺境の間に閣くこそ、武家後代の恥辱なれ、所詮於今度は官軍遮つて敵陣に押し寄せ、八幡・山崎の両陣を責め落とし、賊徒を河に追つはめ、その首を取つて六条河原に可曝」と被下知ければ、四十八箇所の篝、並びに在京人、その勢五千余騎、五条河原に勢揃へして、三月十五日の卯の刻に、山崎へとぞ向かひける。
去る三月十二日の合戦に赤松(赤松則村)が打ち負けて、山崎(現大阪府三島郡島本町)を指して落ちて行った時、たちまち追いかけて討っ手を下しておれば、敵は留まることができなかったでしょうが、今は何事もあるまいと油断したので、敗軍の兵がここかしこより馳せ集まって、ほどなく大勢になりました、赤松(則村)は、中院中将貞能を取り立てて聖護院宮と号し、山崎・八幡(現京都府八幡市)に陣を取り、河尻(平安時代に栄えた大阪湾沿岸の港。現兵庫県東部)を塞ぎ西国往反の道を断ちました。これによって洛中の商買は止まって士卒は皆転漕([陸路と水路とで兵糧など を運ぶこと])の助けに苦しみました。両六波羅(北方、北条仲時。南方、北条時益)はこれを聞いて、「赤松(則村)一人に洛中を悩まされた、その上今に士卒をまで苦しめたとあっては放ってはおけぬ。去る十二日の合戦の体を見ると、敵はさほど大勢でもないが、情けないことに聞き怖じして敵を辺境に留まらせるとは、武家後代の恥辱となるであろう、今度は官軍を打ち破って敵陣に押し寄せ、八幡(現京都府八幡市)・山崎(現大阪府三島郡島本町)の両陣を攻め落とし、賊徒を川に追いはめ、その首を捕って六条河原に晒せ」と下知したので、四十八箇所の篝火、並びに在京人、その勢五千余騎は、五条河原に勢揃いして、三月十五日の卯の刻([午前六時頃])に、山崎へと向かいました。
(続く)