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「太平記」禁裡仙洞御修法の事付山崎合戦の事(その3)

この勢始めは二手に分けたりけるを、久我縄手こがなはては、路細く深田ふかたなれば馬の懸け引きも自在なるまじとて、八条より一手に成り、桂河かつらがはを渡り、河嶋かうしまの南を経て、物集女もずめ大原野おほはらのの前よりぞ寄せたりける。赤松これを聞いて、三千余騎を三手に分かつ。一手には足軽の射手を選つて五百余人小塩山をしほやままはす。一手をば野伏に騎馬の兵を少々交へて千余人、狐河きつねがはの辺に控へさす。一手をばひたすら打ち物のしゆ八百余騎を揃へて、向日明神むかふのみやうじんの後ろなる松原の陰に隠し置く。六波羅勢、敵これまで可出合とは不思寄、そぞろに深入りして、寺戸の在家に火を懸けて、先懸け既に向日明神の前を打ち過ぎける処に、善峯よしみね岩蔵いはくらの上より、足軽の射手一枚楯手々てんでに引つ提げて麓にり下がりて散々に射る。寄せ手のつはものどもこれを見て、馬の鼻を双べて懸け散らさんとすれば、山けはしうして不上得、広みに帯びき出して打たんとすれば、敵これを心得て不懸。「よしや人々、はかばかしからぬ野伏どもに目を懸けて、骨をりては何かせん。ここをば打ち捨てて山崎へ打ちとほれ」と議して、西岡にしのをかを南へ打ち過ぐる処に、坊城ばうじやう左衛門五十ごじふ余騎にて、思ひも寄らぬ向日明神の小松原より懸け出でて、大勢の中へ切つて入る。




この勢ははじめ二手に分けていましたが、久我縄手([久我畷。鳥羽離宮=現京都市伏見区・南区。と西国街道=現大阪府三島郡島本町。を結んだ古道])は、路細く深田でしたので馬の駆け引きも自在になるまいと、八条より一手になり、桂川を渡り、川島(現京都市西京区)の南を経て、物集女(現京都府向日市)・大原野(現京都市西京区)の前から寄せました。赤松(赤松則村のりむら)はこれを聞いて、三千余騎を三手に分けました。一手には足軽の射手を選って五百余人を小塩山(現京都市西京区にある山)に向けました。一手は野伏に騎馬の兵を少々交えて千余人を、狐川(現京都府京田辺市)の辺に控えさせました。一手にはひたすら打ち物([太刀])の衆八百余騎を揃えて、向日明神(現京都府向日市にある向日神社)の後ろの松原の陰に隠し置きました。六波羅勢は、敵はこれまで出て来るとは思いも寄らず、軽はずみに深入りして、寺戸(現京都府向日市)の在家に火を懸け、先駆けはすでに向日明神の前を打ち過ぎていましたが、善峯(現京都市西京区にある善峯寺)・岩倉(現京都市西京区にある西岩倉山)の上より、足軽の射手が一枚楯を手々に引っ提げて麓に降りて散々に矢を射ました。寄せ手の兵どもはこれを見て、馬の鼻を並べて駆け散らそうとしましたが、山は険しく上り得ず、広みに帯びき出して討とうとしましたが、敵はこれを心得て駆けませんでした。「どうだ人々よ、手柄にもならぬ野伏どもに目を懸けて、骨を折り戦ったところで何になろうか。ここは打ち捨てて山崎(現大阪府三島郡島本町)へ打ち通ろう」と議して、西岡(現京都府乙訓郡大山崎町)を南へ打ち過ぎるところに、坊城左衛門が五十余騎で、思いもしなかった向日明神の小松原より駆け出して、大勢の中へ切って入りました。


続く


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by santalab | 2016-05-15 08:58 | 太平記 | Comments(0)

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