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「太平記」京軍事(その8)

只今御方の大勢ども立つ足もなく捲り立てられて、敵皆勇み進める真ん中へ会尺ゑしやくもなく懸け入つて、兄弟二人ににん一族郎従三十六騎、一足も不引討ち死にしける。那須が討ち死に、東寺の敵機に乗らば、合戦また難儀に成りぬとあやふく思へける処に、佐々木六角判官入道ろくかくはうぐわんにふだう崇永そうえいと相摸のかみ清氏きようぢと両勢一手に成つて、七条大宮しちでうおほみやへ懸け抜け、敵を西に受け東にかへりみて、入れ替へ入れ替へ半時許はんじばかりぞ戦うたる。東寺の敵もここを先途と思ひけるにや、戒光寺かいくわうじの前に掻楯かいだて掻いて打ち出で打ち出で火を散らして戦ひけるに、相摸の守薄手数多所あまたところに負うて、すはや討たれぬと見へければ、崇永いよいよ進みてこれを討たせじと戦ふたる。斯かる処に土岐桔梗ききやう一揆五百余騎にて、悪手あらてに替はらんと進みけるを見て、敵も悪手をや憑みけん、掻楯の陰をばつと捨てて半町計りぞ引きたりける。敵に息を継がせばまた立てなほす事もこそあれとて、佐々木と土岐と掻楯の内へ入つて、敵の陣に入れ替はらんとしけるが、まはるほどもなほ遅くや思へけん、佐々木が旗差し堀の次郎、竿さをながら旗を内へ投げ入れて、己が身はやがて掻楯を上り越えてぞ入つたりける。その後相摸の守と桔梗一揆と左右よりまはつて掻楯の中へ入り、南に楯を突き双べて、三千余騎を一所に集め、向かひじやうの如くにて蹈ませたれば、東寺に篭もる敵軍の勢、気をくつし勢を呑まれて、城戸きどより外へ出でざりけり。




味方の大勢どもは足の置き場もなく捲り立てられ、敵は皆勇み進むその真ん中へ会尺もなく駆け入って、兄弟二人一族郎従([家来])三十六騎は、一足も引かず戦い討ち死にしました。那須(那須資藤すけふぢ)が討ち死にして、東寺(現京都市南区にある教王護国寺)の敵は機に乗り、合戦はまた難儀になりぬと危うく思えるところに、佐々木六角判官入道崇永(六角氏頼うぢより)と相摸守清氏(細川清氏)と両勢一手になって、七条大宮へ駆け抜け、敵を西に受け東を気遣いしながら、入れ替え入れ替え半時許り戦いました。東寺(現京都市南区にある教王護国寺)の敵もここを先途([勝敗・運命などの大事な分かれ目])と思い、戒光寺(現京都市東山区にある寺院)の前に掻楯([大形の楯])掻いて打ち出で打ち出で火を散らして戦いました、相摸守(細川清氏)は薄手を数多く負って、あわや討たれぬと見えたので、崇永(六角氏頼)はますます進んで清氏を討たせまいと戦いました。そうこうするところに土岐桔梗一揆([土岐氏一族の強力な武士団])が五百余騎で、新手に替わろうと進むのを見て、敵も新手に替わろうとしたのか、掻楯の陰をぱっと捨てて半町ばかり引き下がりました。敵に息を継がせればまた立て直すこともあろうかと、佐々木(六角氏頼)と土岐(土岐頼康よりやす)は掻楯の内へ入って、敵陣に入れ替わろうとしましたが、迂回するのももどかしく思ったか、佐々木の旗差し堀次郎は、竿ごと旗を内へ投げ入れて、己が身はやがて掻楯を上り越えて内に入りました。その後相摸守(細川清氏)と桔梗一揆が左右より廻って掻楯の中へ入り、南に楯を突き並べて、三千余騎を一所に集め、向かい城のように成したので、東寺に籠もる敵軍の勢は、気を殺がれ勢を呑まれて、城戸より外には出ませんでした。


続く


by santalab | 2016-05-20 08:07 | 太平記

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