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「太平記」京軍事(その9)

京中きやうぢゆうの合戦は、如此数日すじつに及びて雌雄日々に替はり、安否今にありと見へけれども、時の管領くわんれい仁木左京さきやうの大夫頼章よりあきらは、一度も桂川より東へ打ち越えず、ただ嵐山より遥かに見下ろして、御方の勝ちげに見ゆる時は延び上がりて悦び、負くるかと思しき時は、色を変じて落ち支度の外は他事なし。同陣にありける備中の守護飽庭許あいばばかりぞ、余りに見兼ねて、己が手勢許りを引き分けて、度々の合戦をばしたりける。されども大廈たいかは非一本支、山陰道せんおんだうをば頼章の勢に塞がれ、山陽道せんやうだう義詮よしあきら朝臣に囲まれ、東山・北陸ほくろくの両道は将軍の大勢に塞がつて、わづかに河内路かうちぢより外は開きたる方なかりければ、兵粮ひやうらう運送の道も絶えぬ。重ねて攻め上るべき助けの兵もなし。合戦は今まで牛角なれども、将軍の勢日々に随ひて重なる。かくては始終叶はじとて、三月十三日じふさんにちの夜に入つて右兵衛うひやうゑすけ直冬ただふゆ朝臣、国々の大将相共に、東寺・淀・鳥羽の陣を引いて、八幡・住吉・天王寺てんわうじさかひの浦へぞ落ちられける。




京中の合戦は、こうして数日に及んで雌雄は日々替わり、安否は今にありと見えましたが、時の管領([室町幕府の職名。将軍を補佐して政務を総轄した])仁木左京大夫頼章(仁木頼章)は、一度も桂川(現京都市西部を流れ,淀川に注ぐ川)より東へは打ち越えず、ただ嵐山より遥かに見下ろして、味方が勝ちげに見える時は延び上がってよろこび、負けるかと思われる時は、顔色を変えて落ち支度の外は他事もありませんでした。同陣にいた備中の守護飽庭ばかりが、あまりに見かねて、己の手勢ばかりを引き分けて、度々合戦をしました。けれども大廈([大きな建物])は一本で支えることはできず、山陰道は(仁木)頼章の勢に塞がれ、山陽道は義詮朝臣(足利義詮。足利尊氏の嫡男)に囲まれ、東山・北陸両道は将軍の大勢に塞がれて、わずかに河内路([都と大坂を結んだ街道])のほかは通じていませんでしたので、兵粮運送の道も絶えました。重ねて攻め上る助けの兵もありませんでした。合戦は今まで互角でしたが、将軍(足利尊氏)の勢は日々に従い多くなりました。こうなっては始終([最後])は敵うまいと、三月十三日の夜に入って右兵衛佐直冬朝臣(足利直冬。足利尊氏の子)は、国々の大将とともに、東寺(現京都市南区にある教王護国寺)・淀(現京都市伏見区)・鳥羽(現京都市の南区・伏見区)の陣を引いて、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)・住吉(現大阪市住吉区にある住吉大社)・天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)・堺の浦(現大阪府堺市)に落ちて行きました。


続く


by santalab | 2016-05-20 08:11 | 太平記

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