京中の合戦は、如此数日に及びて雌雄日々に替はり、安否今にありと見へけれども、時の管領仁木左京の大夫頼章は、一度も桂川より東へ打ち越えず、ただ嵐山より遥かに見下ろして、御方の勝ちげに見ゆる時は延び上がりて悦び、負くるかと思しき時は、色を変じて落ち支度の外は他事なし。同陣にありける備中の守護飽庭許りぞ、余りに見兼ねて、己が手勢許りを引き分けて、度々の合戦をばしたりける。されども大廈は非一本支、山陰道をば頼章の勢に塞がれ、山陽道は義詮朝臣に囲まれ、東山・北陸の両道は将軍の大勢に塞がつて、僅かに河内路より外は開きたる方なかりければ、兵粮運送の道も絶えぬ。重ねて攻め上るべき助けの兵もなし。合戦は今まで牛角なれども、将軍の勢日々に随ひて重なる。かくては始終叶はじとて、三月十三日の夜に入つて右兵衛の佐直冬朝臣、国々の大将相共に、東寺・淀・鳥羽の陣を引いて、八幡・住吉・天王寺・堺の浦へぞ落ちられける。
京中の合戦は、こうして数日に及んで雌雄は日々替わり、安否は今にありと見えましたが、時の管領([室町幕府の職名。将軍を補佐して政務を総轄した])仁木左京大夫頼章(仁木頼章)は、一度も桂川(現京都市西部を流れ,淀川に注ぐ川)より東へは打ち越えず、ただ嵐山より遥かに見下ろして、味方が勝ちげに見える時は延び上がってよろこび、負けるかと思われる時は、顔色を変えて落ち支度の外は他事もありませんでした。同陣にいた備中の守護飽庭ばかりが、あまりに見かねて、己の手勢ばかりを引き分けて、度々合戦をしました。けれども大廈([大きな建物])は一本で支えることはできず、山陰道は(仁木)頼章の勢に塞がれ、山陽道は義詮朝臣(足利義詮。足利尊氏の嫡男)に囲まれ、東山・北陸両道は将軍の大勢に塞がれて、わずかに河内路([都と大坂を結んだ街道])のほかは通じていませんでしたので、兵粮運送の道も絶えました。重ねて攻め上る助けの兵もありませんでした。合戦は今まで互角でしたが、将軍(足利尊氏)の勢は日々に従い多くなりました。こうなっては始終([最後])は敵うまいと、三月十三日の夜に入って右兵衛佐直冬朝臣(足利直冬。足利尊氏の子)は、国々の大将とともに、東寺(現京都市南区にある教王護国寺)・淀(現京都市伏見区)・鳥羽(現京都市の南区・伏見区)の陣を引いて、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)・住吉(現大阪市住吉区にある住吉大社)・天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)・堺の浦(現大阪府堺市)に落ちて行きました。
(続く)