広有すでに立ち向かつて、欲引弓けるが、聊か思案する様ありげにて、流鏑に挿げたる狩俣を抜いて打ち捨て、二人張りに十二束二伏せ、きりきりと引き絞りて無左右不放之、待鳥啼声たりける。この鳥例より飛び下がり、紫宸殿の上に二十丈許りがほどに鳴きける処を聞き清まして、弦音高く兵と放つ。鏑紫宸殿の上を鳴り響かし、雲の間に手答へして、何とは不知、大盤石の如落懸聞こへて、仁寿殿の軒の上より、二重に竹の台の前へぞ落ちたりける。堂上堂下一同に、「あ射たり射たり」と感ずる声、半時許りののめいて、しばしは不云休けり。衛士の司に松明を高く捕らせてこれを御覧ずるに、頭は如人して、身は蛇の形なり。嘴の前曲つて歯如鋸生ひ違ふ。両の足に長き距あつて、利きこと如剣。羽崎を延べて見之、長さ一丈六尺なり。「さても広有射ける時、俄かに雁俣を抜いて捨てつるは何ぞ」と御尋ねありければ、広有畏つて、「この鳥当御殿上鳴き候ひつる間、仕つて候はんずる矢の落ち候はん時、宮殿の上に立ち候はんずるが禁忌しさに、雁俣をば抜いて捨てつるにて候ふ」と申しければ、主上いよいよ叡感あつて、その夜軈て広有を被成五位、次の日因幡の国に大庄二箇所賜はりてけり。弓矢取りの面目、後代までの名誉なり。
広有(真弓広有)は立ち向かうと、弓をよく引きましたが、少々思案する様子で、鏑に挿げた狩股を抜いて打ち捨て、二人張りの弓に十二束二伏の矢を、きりきりと引き絞って、鳥の鳴き声を待ちました。鳥はいつものように飛び下がり、紫宸殿の上二十丈ばかりのほどで鳴くのを聞き清まして、弦音高く矢を放ちました。鏑矢は紫宸殿の上を鳴り響かし、雲の間に手応えして、何とは知れず、大盤石が落ちるような音が聞こえて、仁寿殿([平安京内裏の中央にある殿舎の一])の軒の上より、同時に竹の台([清涼殿の東庭にある、籬の方形の囲い])の前に物が落ちました。堂上堂下一同に、「仕留めたぞ」と叫喚の声が、半時ばかり響き渡り、しばらく静まりませんでした。衛士の司に松明を高く持たせてこれを見れば、頭は人のよう、身は蛇の形をしていました。嘴の先は曲がって鋸のような歯が生えていました。両足には長い蹴爪があって、まるで剣のようでした。羽先を広げて見れば、長さは一丈六尺(約4.8m)もありました。「そうと広有が矢を射る時、にわかに雁股を抜いて捨てたのはどうしてか」と(第九十六代後醍醐天皇が)訊ねられると、広有は畏り、「この鳥が殿上で鳴いておりますれば、仕って放つ矢が落ちて、宮殿の上に立つのを憚り、雁股を抜いて捨てたのでございます」と答えたので、主上(後醍醐天皇)はますます感心されて、その夜たちまち広有を五位のなされ、次の日には因幡国の大庄二箇所を賜わりました。弓矢取り(武士)の面目、後代までの名誉となりました。
(続く)