播磨の国の住人妻鹿孫三郎長宗と申すは、薩摩の氏長が末にて、力人に勝れ器量世に超えたり。生年十二の春の頃より好んで相撲を取りけるに、日本六十余州の中には、遂に片手にも懸かる者なかりけり。人は類を以つて聚まる習ひなれば、相伴ふ一族十七人、皆これ世の常の人には越えたり。されば他人の手を不交して一陣に進み、六条の坊門大宮まで責め入りたりけるが、東寺・竹田より勝軍して帰りける六波羅の勢三千余騎に被取巻、十七人は被打て、孫三郎一人ぞ残りたりける。「生きて無甲斐命なれども、君の御大事これに限るまじ。一人なりとも生き残つて、後の御用にこそ立ため」と独り言して、ただ一騎西朱雀を指して引きけるを、印具駿河の守の勢五十余騎にて追つ懸けたり。その中に、年の程二十許りなる若武者、ただ一騎馳せ寄せて、引いて帰りける妻鹿孫三郎に組まんと近付いて、鎧の袖に取り着きける処を、孫三郎これを物ともせず、長き肘を指し延べて、鎧の総角を掴んで宙に引つ提げ、馬の上三町許りぞ行きたりける。
播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗(妻鹿長宗)と申す者は、薩摩氏長(平安初期の伝説の相撲人らしい)の子孫で、力は人に勝れ器量([能力])は世に超えていました。生年十二の春頃より好んで相撲を取って、日本六十余州の中には、片手の勝負でさえ敵う者はいませんでした。人は類をもって集まるものでしたので、一族十七人も、皆これ世の常の人に力勝っていました。なれば他人の手を混ぜずに一陣に進み、六条坊門大宮まで攻め入りましたが、東寺・竹田より勝軍して帰っていた六波羅の勢三千余騎に取り巻かれ、十七人は打たれて、孫三郎一人だけが生き残りました。「生きて甲斐のない命ではあるが、君(第九十六代後醍醐天皇)の大事はこの度ばかりではあるまい。一人なりとも生き残って、後の御用に立とう」と独り言して、ただ一騎西朱雀を指して引くところを、印具駿河守(印具時高)の勢五十余騎で追い懸けました。その中に、年のほど二十ばかりの若武者が、ただ一騎で馳せ寄せて、引いて戻る妻鹿孫三郎に組もうと近付いて、鎧の袖に取り付きましたが、孫三郎は物ともせず、長く肘を差し伸ばし、鎧の総角([鎧の背や兜の鉢の後ろの環につけた、揚巻結びの緒])を掴んで宙に引っ提げ、馬上に掲げて三町ばかり進みました。
(続く)