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「太平記」主上自令修金輪法給ふ事付千種殿京合戦の事(その1)

京都数箇度すかどの合戦に、官軍くわんぐん毎度打ち負けて、八幡やはた・山崎の陣も既に小勢に成りぬと聞こへければ、主上しゆしやう天下の安危いかがあらんと宸襟しんきんを被悩、船上ふなのうへ皇居くわうきよに壇を被立、天子みづか金輪こんりんの法を行はせ給ふ。その七箇日に当たりける夜、三光天子さんくわうてんし光を並べて壇上に現じ給ひければ、御ぐわんたちまちに成就じやうじゆしぬと、憑もしく被思召ける。さらばやがて大将を差し上せて赤松入道に力を合はせ、六波羅を可攻とて、六条ろくでうの少将忠顕ただあき朝臣を頭の中将ちゆうじやうに成し、山陽さんやう山陰せんおん両道の兵の大将として、京都へ被指向。その勢伯耆はうきの国を立ちしまで、わづかに千余騎と聞こへしが、因幡・伯耆・出雲いづも美作みまさか・但馬・丹後・丹波・若狭の勢ども馳せくははつて、程なく二十万七千にじふまんしちせん余騎に成りにけり。また第六の若宮は、元弘の乱の始め、武家に被囚させ給ひて、但馬の国へ被流させ給ひたりしを、その国の守護太田三郎左衛門さぶらうざゑもんじよう取り立て奉つて、近国きんごくの勢を相催あひもよほし、すなはち丹波の篠村しのむら参会さんくわいす。大将頭の中将不斜悦んで、すなはち錦の御旗を立てて、この宮を上将軍じやうしようぐんあふぎ奉つて、軍勢催促の令旨りやうじを被成下けり。




京都での数箇度の合戦に、官軍(後醍醐天皇方)は毎度打ち負けて、八幡(現京都府八幡市)・山崎(現大阪府三島郡島本町)の陣もすでに小勢になったと聞こえたので、主上(第九十六代後醍醐天皇)は天下の安危はどうなることかと宸襟を悩ませ、船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町)の皇居に壇を立てられ、天子自ら金輪法([一字金輪仏を本尊とする修法])を行われました。その七箇日に当たる夜、三光天子([日天子・月天子・明星天子の総称])が光を並べて壇上に現われたので、願はたちまちに成就するであろうと、頼もしく思われました。ならばすぐに大将を差し上せて赤松入道(赤松則村のりむら)に力を合わせ、六波羅を攻めるべしと、六条少将忠顕朝臣(千種忠顕)を頭中将に成して、山陽・山陰両道の兵の大将として、京都へ指し向けました。その勢は伯耆国を立つ時は、わずかに千余騎と聞こえましたが、因幡・伯耆・出雲・美作・但馬・丹後・丹波・若狭の勢どもが馳せ加わって、ほどなく二十万七千余騎になりました。また第六の若宮(恒良つねよし親王)は、元弘の乱(1331)のはじめ、武家に捕らえられて、但馬国に流されましたが、その国の守護太田三郎左衛門尉が取り立てて、近国の勢を集め、たちまち丹波の篠村(現兵庫県丹波市)に参りました。大将頭中将(千種忠顕)はたいそうよろこんで、たちまち錦の旗を立てて、この宮(恒良親王)を上将軍と仰いだので、軍勢催促の令旨を下されました。


続く


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by santalab | 2016-06-03 21:17 | 太平記 | Comments(0)

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