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「太平記」足利殿着御篠村則国人馳参事(その5)

さて官軍くわんぐんは五月七日京中に寄せて、合戦可有と被定ければ、篠村しのむら八幡やはた・山崎の先陣の勢、宵より陣を取り寄せて、西は梅津・桂の里、南は竹田・伏見にかがりを焚き、山陽せんやう山陰せんおんの両道はすでに如此。また若狭路を経て、高山寺かうせんじの勢ども鞍馬路・高雄たかをより寄するとも聞こゆなり。今はわづかに東山道とうせんだう許りこそ開きたれども、山門なほ野心を含める最中なれば、勢多せたをも指し塞ぎぬらん。の中の鳥、網代あじろうをの如くにて、可漏方もなければ、六波羅のつはものども、うへには勇める気色きしよくなれども、心は下に仰天ぎやうてんせり。かの雲南万里ばんりいくさ、「へべに有三丁抽一丁」といへり。いはんやまた千葉屋ちはやほどの小城こじろ一つを攻めんとて、諸国の勢数を尽くして被向たれども、その城いまだ落ちざる先にわざはひすでに蕭牆せうしやううちより出でて、義旗ぎきたちまちに長安の西に近付きぬ。防がんとするに勢少なく救はんとするに道塞がれり。あはれ兼ねてよりかかるべしとだに知りたらば、京中の勢をばさのみ空かすまじかりしものをと、両六波羅りやうろくはらを始めとして後悔すれども甲斐ぞなき。




さて官軍は五月七日京中に寄せて、合戦するべしと定まったので、篠村(現京都府亀岡市)・八幡(現京都府八幡市)・山崎(現大阪府三島郡島本町)の先陣の勢は、宵より陣を取って、西は梅津(現京都市右京区)・桂の里(現京都市西京区)、南は竹田(現京都市伏見区)・伏見(現京都市伏見区)に篝火を焚き、山陽・山陰両道を塞ぎました。また若狭路を経て、高山寺(現京都市右京区にある寺院)の勢どもが鞍馬路・高雄(現京都市右京区にある神護寺)より寄せるとも聞こえました。今はわずかに東山道ばかりが開いていましたが、山門(延暦寺)はなおも野心を抱いていましたので、勢多(現滋賀県大津市勢田)を塞ぐことも考えられました。籠の中の鳥、網代([冬、竹または木を組み並べて網を引く形に川の瀬に仕掛け、端にを取り付けて魚を捕る設備])の魚の如くとなって、落ち行く方もなく、六波羅の兵どもは、表面上は勇める気色でしたが、心の中では仰天([予想していなかったことが起きて、非常に驚くこと])するほかありませんでした。かの雲南万里の軍(南詔=八世紀半ば、中国西南部、雲南地方の洱海じかい地区に勃興したチベット ・ビルマ語族の王国。の南詔王閣羅鳳かくらほうと、雲南太守張虔陀ちようけんだとの争い。張虔陀事件)では、「戸有三丁點一丁」(一家に三人の若者があれば、一人を徴兵した)といいます。いうまでもなく千葉屋(現大阪府南河内郡千早赤阪村)ほどの小城一つを攻めるのに、諸国の勢を数を尽くして向かわせましたが、その城がいまだ落ちぬ前に禍いはすでに蕭牆([一家の内部に起こるもめごと])の中より起こり、義旗([正義のために旗あげをすること。また、その旗じるし])はたちまちに長安(都)の西に近付きました。防ごうとする勢は少なく救おうにも道は塞がれました。あわれなことでした予ねてこうなることを知っていたならば、京中の勢を差し向けることはなかったと、両六波羅(北方は北条仲時なかとき、南方は北条時益ときます)をはじめとして後悔しましたがどうにもならないことでした。


続く


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by santalab | 2016-06-15 07:34 | 太平記 | Comments(0)

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