山門二心なく君を擁護し奉て、北国・奥州の勢を相待つ由聞こへければ、義貞に勢の付かぬ前に、東坂本を急ぎ攻めらるべしとて、細川卿の律師定禅・同じく刑部の少輔・並びに陸奥の守を大将として、六万余騎を三井寺へ差し遣はせらる。これはいつも山門に敵する寺なれば、衆徒の所存よも二心あらじと頼まれける故なり。従つて衆徒忠節を致される者にして、戒壇造営の事、武家殊に加力になるべくその功の由、御教書になされる。
山門(延暦寺)は二心なく君(第九十六代後醍醐天皇)を擁護して、北国・奥州の勢を待つと聞こえたので、義貞(新田義貞)に勢が付かぬ前に、東坂本(現滋賀県大津市。延暦寺の門前町)を急ぎ攻めるべしと、細川卿律師定禅(細川定禅)・同じく刑部少輔(細川直俊。細川定禅の兄)・並びに陸奥守(細川顕氏。定禅・直俊の兄)を大将として、六万余騎を三井寺(現滋賀県大津市にある園城寺)に差し遣わしました。これはいつも山門と敵対する寺でしたので、衆徒([僧])の思いよもや二心あるまいと頼んでのことでした。こうして衆徒は忠節を致す者となって、戒壇造営の事、その功として武家が格別に力となる旨を、御教書([三位以上の貴人の意向を伝える奉書])になしました。
(続く)