貞観六年十二月五日の状にいはく、
望請長為延暦寺別院、以件円珍作主持之人、早垂恩恤、以園城寺、如解状可為延暦寺別院之由、被下寺牒。将俾慰夜須磨呂並氏人愁吟。弥為天台別院専祈天長地久之御願、可致四海八延之泰平云云。仍貞観八年五月十四日、官符被成下曰、「以園城寺可為天台別院」云云。如之貞観九年十月三日智証大師記文云、「円珍之門弟不可受南都小乗劣戒、必於大乗戒壇院、可受菩薩別解脱戒」云云。しかれば本末の号歴然たり。師弟の義何ぞ同じからん。
証を引き理を立てて支へ
申しける間、君思し召し
煩はせ給ひて、「
許否共に凡慮の及ぶところにあらざれば、ただ冥慮に任すべし」とて、
自ら
告文を被遊て
叡山の
根本中堂に被篭けり。その
詞にいはく、
戒壇立、而可無国家之危者、悟其旨帰、戒壇立而可有王者之懼者、施其示現。
云云。
貞観六年(864)十二月五日の状には、
(園城寺は)延暦寺の別院となることを久しく望んでおりますが、この度円珍を主となしました折、恩恤([恩と憐れみ])をもって、延暦寺の別院となることを許されますようにとの、寺牒([寺から官に差し出した公の文書])です。どうか夜須磨呂並びに氏人の愁吟([悩み嘆くこと])を慰められますよう。申すまでもなく(園城寺)天台別院願いは天長地久([天地の存在は永遠であること。天地が永久であるように、 物事がいつまでも続くことのたとえ])の御願のため、四海八延([国内])の泰平を致すためでございます」。また貞観八年(866)五月十四日には、官符が下されて、「園城寺を天台別院となすべし」とあります。そして貞観九年(867)十月三日には智証大師(円珍)はこう文に記しています、「円珍の門弟は南都(奈良)の小乗劣戒([具足戒]=[仏教で出家した男女の修行者が遵守すべき戒])を受けるべきではない、必ず大乗戒壇院において、菩薩が受けた別解脱戒([解脱の徳を得るための戒])を受けるべし」とあります。以上により当寺が延暦寺別院であることは明らかです。師弟といえども教義が異なるのは当然のことです。
証を引き理を立てて反論したので、君(第六十九代後朱雀天皇)は思い煩われて、「許否ともに凡慮の及ぶところになくば、ただ冥慮に任すべし」と申して、自ら告文([神に対して申し上げること・願いごとなどを書き記した文書])を書かれて、叡山(延暦寺)の根本中堂に籠められました。その詞には、
戒壇を立てること、国家の危機となるであろうか、それを訊ねたい、もし戒壇を立てることが王者(朝廷)の恐れとなるのであれば、その示現を示し給え。
とありました。
(続く)