同じき二十七日北畠右衛門の督顕能、兵五百余騎を率して持明院殿へ参り、先づその辺の辻々門々を堅めさせければ、「すはや武士どもが参りて、院・内を失ひ進らせんとするは」とて女院・皇后御心を迷はして臥し沈ませ給ひ、内侍・上童・上臈・女房などは、行方も不知逃げふためいてここかしこに彷徨ふ。されども顕能卿、穏かに西の小門より参つて、四条の大納言隆蔭卿を以つて、「世の静まり候はんほどは、皇居を南山に移し進らすべしとの勅定にて候ふ」と被奏ければ、両院・主上・東宮あきれさせ給へる許りにて、とかうの御言にも不及、ただ御泪にのみほれさせ給ひて、羅穀の御袂絞る計りに成りにけり。
同じ(正平七年(1352)潤二月)二十七日に北畠右衛門督顕能(北畠顕能)は、兵五百余騎を率して持明院殿(現京都市上京区にあった持明院統の里内裏)に参り、まずそのあたりの辻々門々を固めたので、「なんということか武士どもが参って、院(北朝初代光厳院・第二代光明院)・内(北朝第三代崇光天皇)を失い参らせようとしているのでは」と申して女院(第九十三代後伏見天皇の女御で光厳天皇・光明天皇の実母、西園寺寧子。広義門院)・皇后(光厳天皇の典侍で崇光天皇・北朝第四代後光厳天皇の生母、正親町三条秀子?)は心惑い臥し沈み、内侍・上童・上臈・女房などは、行く方も知れず逃げふためいてここかしこにさまよいました。けれども顕能卿は、穏かに西の小門より参ると、四条大納言隆蔭卿(四条隆蔭)をもって、「世が静まるまで、皇居を南山に移すべしとの勅定でございます」と奏したので、両院(光厳院・光明院)・主上(崇光天皇)・東宮(第九十五代花園天皇の皇子、直仁親王)はあきれるばかりで、何も申せませんでした、ただ涙を流されて、羅穀([絹織物])の袂を絞るしかありませんでした。
(続く)