Santa Lab's Blog


「太平記」将軍御進発大渡・山崎等合戦の事(その2)

去るほどに正月七日に、義貞内裏より退出して軍勢の手分けあり。勢多へは伯耆はうきかみ長年ながとしに、出雲・伯耆・因幡三箇国の勢二千騎にせんぎを副へて向けけらる。供御ぐごの瀬・膳所ぜぜが瀬二箇所に大木を数千本すせんぼん流し懸けて、大綱おほづなを張り乱杭らんぐひを打ちて、引つ懸け引つ懸け繋ぎたれば、いかなる河伯かはく水神なりとも、上をも泳ぎ難く下をも潛り難し。宇治へは楠木判官正成まさしげに、大和・河内・和泉いづみ紀伊の国の勢五千余騎を副へて向けらる。橋板四五間跳ねはづして河中に大石を畳み上げ、逆茂木を繁くり立てて、東の岸を高く屏風びやうぶの如くに切つて立てたれば、河水二つにはかれて、白浪みなぎり落ちたる事、あたか竜門三級さんきふの如くなり。敵に心安く陣を取らせじとて、橘の小嶋・槙の嶋・平等院びやうどうゐんのあたりを、一宇も残さず焼き払ひけるほどに、魔風まふう大廈たいかに吹き懸けて、宇治の平等院の仏閣宝蔵はうざう、忽ちに焼けける事こそ浅ましけれ。山崎へは脇屋右衛門うゑもんすけを大将として、洞院とうゐん按察あぜち大納言・文観もんくわん僧正そうじやう大友おほとも千代松丸おほともちよまつまる・宇都宮美濃の将監しやうげん泰藤やすふぢ・海老名の五郎左衛門ごらうざゑもんじようちやう九郎左衛門くらうざゑもん以下いげ七千余騎の勢を向けらる。




やがて正月七日に、義貞(新田義貞)は内裏より退出して軍勢を手分けしました。勢多(現滋賀県大津市瀬田)には伯耆守長年(名和長年)に、出雲・伯耆・因幡三箇国の勢二千騎を添えて向けました。供御の瀬(現滋賀県大津市)・膳所が瀬(現滋賀県大津市)二箇所に大木を数千本流し懸けて、大綱を張り乱杭([地上や水底に数多く不規則に打ち込んだ杭])を打って、引っ懸け引っ懸け繋いだので、河伯([中国神話に登場する黄河の神])水神であろうとも、水上を泳ぎ下を潜ることはできないように思われました。宇治(現京都府宇治市)は楠木判官正成(楠木正成)に、大和・河内・和泉・紀伊国の勢五千余騎を添えて向けました。橋板を四五間(約400~500m)外して川中には大石を畳み上げ、逆茂木を幾重にも立て並べて、東岸を高く屏風のように切り立てたので、河水二つに分かれて、白浪がみなぎり落ちる様は、あたかも竜門三級(中国夏王朝を開いた>禹が黄河の治水をした際、上流の竜門山を三段に切り落としたため三段の瀑布ができたという)のようでした。敵に易々と陣を取らせまいと、橘の小島(かつて宇治橋の下流にあった中洲の一つ)・槙の島(宇治川と小掠池=現京都市伏見区・京都府宇治市・京都府久世郡久御山町にまたがる場所にかつて存在した池。とにはさまれた部分)・平等院のあたりを、一宇も残さず焼き払うと、魔風が大廈([大きな建物])に吹き懸けて、宇治平等院の仏閣宝蔵が、たちまちに焼けたのは残念なことでした。山崎(現大阪府三島郡島本町)へは脇屋右衛門佐(脇屋義助よしすけ。新田義貞の弟)を大将として、洞院按察大納言(洞院公敏きんとし)・文観僧正・大友千代松丸(大友氏泰うぢやす)・宇都宮美濃将監泰藤(宇都宮泰藤)・海老名五郎左衛門尉・長九郎左衛門以下七千余騎の勢を向けました。


続く


[PR]
by santalab | 2016-06-28 08:57 | 太平記 | Comments(0)

<< 「太平記」奥州勢着坂本事(その1)      「太平記」園城寺戒壇事(その8) >>

Santa Lab's Blog
by santalab
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
ひょんな事から、このブロ..
by yoshy at 18:50
すみません、日本語の起源..
by 春日 at 21:17
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧