憂かりし正平六年の歳晩れて、新玉の春立ちぬれども、皇居はなほも山中なれば、白馬蹈歌の節会なんどは不被行。寅の時の四方拝、三日の月奏計りあつて、後七日の御修法は文観僧正承りて、帝都の真言院にて被行。十五日過ぎければ、武家より貢馬十疋・沙金三千両奏進之。その外別進の貢馬三十疋・巻絹三百疋・沙金五百両、女院皇后三公九卿、無漏方引き進らす。二月二十六日、主上已に山中を御出であつて、腰輿を先づ東条へ被促。剣璽の役人計り衣冠正しくして被供奉。その外の月卿・雲客・衛府・諸司の尉は皆甲胄を帯して、前騎後乗に相順ふ。東条に一夜御逗留あつて、翌日やがて住吉へ行幸なれば、和田・楠木以下、真木野・三輪・湯浅入道・山本判官・熊野の八庄司吉野十八郷の兵、七千余騎、路次を警固仕る。皇居は当社の神主津守の国夏が宿所を俄かに造り替へて臨幸なし奉りけり。国夏則ち上階して従三位に被成。先例未だなき殿上の交はり、時に取つての面目なり。
悲しむべき正平六年(1351)の年も暮れて、新玉の春になりましたが、皇居はなおも山中(賀名生殿。現奈良県五條市)にありましたので、白馬([紫宸殿で左右馬寮の白馬を天覧の後、群臣に宴を賜わる儀式])蹈歌([足で地を踏み拍子をとりつつ回る一種の集団舞踊])の節会も行われませんでした。寅の時([午前四寺頃])の四方拝([宮中で行われる一年最初の儀式])、三日の月奏([官人の出勤日数を調べ、翌月の一日に天皇に報告したこと])ばかりあって、後七日御修法([真言院において、一月八日から十四日までの七日間、天皇の安寧や国家安穏を祈る秘法])は文観僧正が承って、帝都の真言院(平安京大内裏中和院の西にあった密教の修法道場)で行われました。十五日を過ぎて、武家より貢馬([朝廷に進献する馬])十匹・沙金三千両(約110kg)が奏進されました。そのほか別進の貢馬三十匹・巻き絹三百疋(一疋=二反)・沙金五百両を、女院(第九十六代後醍醐院の後宮で第九十七代後村上天皇の生母、阿野廉子。新待賢門院)皇后(?)三公九卿([中国の秦漢時代の行政官職の総称])、漏れなく引き参らせました。二月二十六日に、主上(第九十七代後村上天皇)は山中を出られて、腰輿をまず東条(現大阪府柏原市?)へ向けられました。剣璽([天叢雲剣と八尺瓊勾玉])の役人だけが衣冠を正しくして供奉しました。そのほかの月卿・雲客・衛府・諸司の尉([律令制における四等官の第三位の官])は皆甲胄を帯して、前騎後乗([後乗り]=[行列の最後尾を騎馬で行くこと])に従い、東条に一夜逗留されて、翌日やがて住吉(現大阪市住吉区にある住吉大社)に行幸されました、和田・楠木(楠木正儀。楠木正成の三男)以下、真木野・三輪・湯浅入道(湯浅定仏)・山本判官・熊野八庄司([紀伊熊野の八つの庄の庄司])吉野十八郷の兵、七千余騎が、路次を警固しました。皇居は当社の神主津守国夏の宿所をにわかに造り替えて臨幸なし奉りました。国夏はたちまち上階して従三位になりました。先例いまだなき殿上の交わりは、時に取っての面目となりました。
(続く)