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「太平記」奥州勢着坂本事(その2)

鎌倉より西には手差す者もなかりければ、夜昼よるひる馬を早めて、正月十二日近江あふみ愛智河えちがはの宿に着かれけり。その日大館中務おほたちなかづかさ大輔たいふ、佐々木の判官はうぐわん氏頼うぢよりその頃いまだ幼稚えうちにて立てもりたる観音寺くわんおんじの城郭を攻め落として、敵を討つ事すべて五百余人、翌日早馬を先き立てて事の由を坂本へ申されたりければ、主上しゆしやうを始めまゐらせて、敗軍の士卒じそつことごとく悦びをなし、心ざしを蘇しめずと言ふ者なし。すなはち道場坊の助註記じよちゆうき祐覚いうかくに仰せ付けられ、湖上こしやうの船七百余艘よさうを点じて志那しなの浜より一日が内にぞ渡されける。ここに宇都宮紀清きせい両党、主の催促に依つて五百余騎にて打ち連れたりけるが、宇都宮は将軍しやうぐん方にありと聞こへければ、面々にいとまを請ひ、色代しきだいして志那の浜より引き分かれ、芋洗いもあらひまはつて、京都へこそ上りけれ。




鎌倉から西には敵はいなかったので、夜昼馬を早めて、新田義貞は正月十二日に近江国の愛智河宿(現滋賀県愛知郡愛荘町)に着きました。その日大館中務大輔(大館幸氏。新田氏)が、佐々木判官氏頼(佐々木氏頼)はその頃まだ幼く立ち籠もっていた観音寺城(現滋賀県近江八幡市安土町にあった山城)を攻め落として、敵を討つこと都合五百人余り、翌日早馬を立ててこれを坂本(現滋賀県大津市坂本町)に知らせると、主上(第九十六代後醍醐天皇)をはじめ、敗軍の士卒([軍兵])は一人残らずよろこび、気を晴らさない者はいませんでした。すぐに道場坊の助註記([註記]=[寺院で論議の際、題を読み上げ、また論議を記録する役僧])祐覚に命じて、琵琶湖上に船七百艘余りをもって志那の浜(現滋賀県草津市。琵琶湖最南端)より一日の内に来させました。ここに宇都宮紀清両党(宇都宮氏の武士団。紀姓益子氏と清原姓芳賀氏)が、主(宇都宮公綱きんつな)の催促によって上洛し五百騎余り付き従っていましたが、宇都宮(公綱きんつな)が将軍(足利尊氏)方にいると聞いたので、それぞれ別れを申して、色代([挨拶])して志那浜より別れ、芋洗(一口いもあらひ。現京都府久世郡久御山町)を迂回して、京都に上りました。


続く


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by santalab | 2016-06-30 08:41 | 太平記 | Comments(0)

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