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「太平記」高倉殿京都退去の事付殷紂王の事(その3)

そもそもこれは誰が依意見、高倉殿は加様に兄弟叔父をぢをひの間、合戦をしながらさすが無道ぶだうを誅して、世を鎮めんとする所を計らひ給ふとたづぬれば、禅律の奉行ぶぎやうにて被召仕りける南家の儒者、藤原少納言有範ありのりが、よりよりまうしける儀を用ひ給ひける故とぞうけたまはる。「さるほどに昔いんの帝武乙ぶいつと申しし王の位に即いて、悪を好む事しきりなり。我天子として一天四海をたなごころに握るといへども、なほ日月の明暗を心に不任、雨風のあらけはしき事を止め得ぬこそ安からねとて、いかにもして天を亡ぼさばやとぞ被巧ける。先づ木を以つて人を作つて、これを天神と名付けて帝みづからこれと博奕ばくえきをなす。神まことの神ならず、人代はつて賽を打ち石を仕ふ博奕なれば、帝などか勝ち給はざらん。勝ち給へば、天負けたりとて、木にて作れる神の形を手足を切り頭を刎ね、打擲蹂躪ちやうちやくじうりんして獄門にこれをさらしけり。またかはを以つて人を作つて血を入れて、これを高き木の梢に懸け、天を射るとがうして射るに、血出でて地にそそく事をびたたし。加様かやう悪行あくぎやう身に余りければ、帝武乙ぶいつ河渭かゐりせし時、にはかにいかつち落ち懸かりて御身を分々つだつだに引き裂きてぞ捨たりける。




そもそもこれは誰の意見によるものか、高倉殿(足利直義ただよし。足利尊氏の弟)は兄弟叔父甥でしたので、合戦をしながらもさすがに無道を誅して、世を鎮めようとしたのかといえば、禅律の奉行として召し仕えていた南家の儒者、藤原少納言有範(日野有範)が、折々申していた儀を用いたのだと聞いています。「昔殷の帝武乙ていいつ(殷の第二十九代王)と申す人が王位に即いて、もっぱら悪を好みました。我は天子として一天四海([国内])を掌中に握るといえども、なお日月の明暗を心に任せず、雨風が激しく荒れることを止めることができないことに腹を立てて、なんとしても天を亡ぼそうと企みました。まず木で人を作って、これを天神と名付けて帝自らこれと勝負しました。神といえどもまことの神ならず、人が代わって賽を打ち石を置く博奕でしたので、どうして帝が勝たないことがありましょう。勝つと、天が負けたと、木で作った神の手足を切り頭を刎ね、打擲蹂躪([叩くことと踏みにじること])して獄門にこれを晒しました。また革で人を作って血を入れて、これを高い木の梢に懸け、天を射ると言って矢を射ると、血が出て地に降り注ぎました。このように悪行が身に余って、帝武乙が河渭(黄河)で狩りをしていた時、にわかに雷が落ち懸かって身をずたずたに引き裂かれました。


続く


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by santalab | 2016-07-10 08:37 | 太平記 | Comments(0)

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