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「太平記」高倉殿京都退去の事付殷紂王の事(その4)

その後御孫の小子帝位に即き給ふ。これをいん紂王ちうわうとぞまうしける。紂王ひととなり給ひて後、智は諌めをこばみ、是非の端をかざるに足れり。勇は人に過ぎて、手づから猛獣まうじうとりひしぐに難しとせず。人臣にほこるにのうを以つてし、天下にたかぶるにを以つてせしかば、人皆己が下より出たりとて、諌諍かんさうの臣をも不被置、先王の法にも不順。妲己だつきと云ふ美人を愛して、万事只これがまうす侭に付き給ひしかば、罪なくして死を賜ふ者多くただ積悪のみあり。鉅鹿きよろくと云ふがうに、まは三十里さんじふりの倉を作りて、米穀を積み余し、朝歌てうかと云ふ所に高さ二十丈にじふぢやううてなを立て、銭貨を積み満てり。また沙丘しやきうに廻り一千里の苑台ゑんだいを造りて、酒をたたへ池とし、肉を懸けて林とす。その中に若く清らかなる男三百人、見目かたち勝れたる女三百人を裸になして、相逐あひおつて婚姻をなさしむ。酒の池には、竜頭鷁首りようどうげきしゆの舟を浮かべて長時ちやうじひをなし、肉の林には、北里の舞、新婬しんいんの楽を奏して不退の楽しみを尽くす。天上の婬楽快楽いんらくけらくも、これには及ばじとぞ見へたりける。




その後孫の小子([四歳以上十六歳以下の男子])が帝位に即きました(紂王は、第二十九代武乙ていいつの子)。これを殷の紂王(殷の第三十代王)と申します。紂王は大人になった後、智は諌めを拒み、わずかに是非([物事のよしあしを議論し判断すること。批評すること])を論じるばかりでした。勇は人に過ぎて、自らの手で猛獣を倒すほどでした。力をもって人臣に矜り([自分の力量を自負する])、声をもって天下に威勢を振るったので、諌諍([面と向かって主君を諌めるこ])の臣をも置かず、先王の法にも従いませんでした。妲己という美人を愛して、万事ただ妲己の言うままでしたので、罪なくして死を賜う者は多くただ積悪ばかりでした。鉅鹿(現在の河北省邢台けいたい市巨鹿県)という郷に、周囲三十里(中国の単位で約12km)の倉を作り、米穀を積み余し、朝歌(現河南省県)という所に高さ二十丈の台([楼])を立て、銭貨を積み満たしました。また沙丘(砂丘)に廻り一千里の苑台(庭園)を造り、酒を湛え池とし、獣を放って林としました。その中に若く清らかな男三百人、見目容姿勝れた女三百人を裸にして、追わせて性交させました。酒の池には、竜頭鷁首([船首にそれぞれ竜の頭と鷁=中国で、想像上の水鳥。の首とを彫刻した二隻一対の船])の舟を浮かべて長時酒を飲み、肉の林には、北里の舞(みだらな舞だったらしい)、新婬の楽(靡靡の楽。みだらな楽曲だったらしい)を奏して不退の楽しみを尽くしました。天上の婬楽([色欲による快楽])快楽([煩悩から解放されて得られる安楽])も、これには及ばないと思われました。


続く


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by santalab | 2016-07-10 08:42 | 太平記 | Comments(0)

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