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「太平記」高倉殿京都退去の事付殷紂王の事(その7)

西伯故郷に帰つて、我が命の活きたる事をばさしも不悦給、ただ炮格の罪に逢うて、無咎人民どもが、毎日毎夜に十人じふにん二十人被焼殺事を、我が身に当たれる苦の如くあはれに悲しく思しければ、洛西の地三百里を、紂王ちうわうの后に献じて、炮格の刑を被止事をぞ被請ける。后も同じく欲に染む心深くをはしければ、すなはち洛西の地に替へて、炮格の刑を止めらる。あまつさへ感悦なほこれには不足けるにや、西伯に弓矢斧鉞ふえつを賜はつて、天下の権を執り武ををさめける官をさづけ給ひければ、ただ龍の水を得て雲上うんじやうに挙がるに不異。その後西伯渭浜ゐひんきたりせんとし給ひけるに、史編しへんと云ひける人占うて申しけるは、「今日の獲物は非熊非羆、天君に師を可与ふ」とぞける。西伯おほいに悦びて潔斉けつさいし給ふ事七日、渭水ゐすゐきたに出て見給ふに、太公望たいこうばう半簔はんさ烟雨えんう水すさまじうして、釣を垂るる事人に替はれるあり。これ則ち史編が占ふ所なりとて、車の右に乗せてかへり給ふ。則ち武成王ぶせいわうあふぎて、文王これを師とし仕ふる事不疎、逐に太公望がはかりことに依つて西伯徳を行ひしかば、その子武王の世に当たつて、天下の人皆いんを背いてしうに帰せしかば、武王逐に天下を執つて永く八百余年を保ちき。




西伯(文王。中国周朝の始祖)は故郷に帰りましたが、我が命を長らえたことを少しもよろこばず、ただ炮格([銅柱に油を塗り、火で熱したものの上を歩き、焼け死ぬ刑罰])の罪によって、咎なき人民どもが、毎日毎夜に十人二十人焼き殺されるのを、我が身の苦の如く哀れに悲しく思い、洛西の地三百里を、紂王(殷の第三十代王)の后(妲己だつき)に献じて、炮格の刑を止めるようにと要請しました。后も同じく欲に染まる心深い者でしたので、たちまち洛西の地に替えて、炮格の刑を止めました。なおも感悦はこれに止まらなかったのか、西伯に弓矢斧鉞([君主が出征する将軍に統率の印として渡したもの])を賜わって、天下の権を執り武を治める官を授けたので、龍が水を得て雲上に登るようなものでした(文王は元より、三公の地位にあったらしい)。その後は西伯渭浜(現陝西省宝鶏市)の北で狩りをしようとしましたが、史編という人(人ではなく易経)の占いに、「今日の獲物は熊でもなく羆([ヒグマ])でもない、天が君に師を与える」と出ました。西伯はたいそうよろこんで七日間潔斎した後、渭水(黄河の支流の一)の北に出ると、太公望(中国周の軍師、後に斉の始祖)が大雨の中半簔を着て、釣りをしていましたが只人には見えませんでした。これが史編の占う人であると、車の右に乗せて帰りました。たちまち武成王と仰いで、文王は太公望を師とし疎かならず仕えました。逐に太公望の謀によって西伯は徳政を行ったので、その子武王(文王の次子)の世になって、天下の人は皆殷を背いて周に付いたので、武王は逐に天下を執って(周は)永く八百余年続きました。


続く


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by santalab | 2016-07-10 09:46 | 太平記 | Comments(0)

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