古の事を引いて今の世を見候ふに、ただ羽林相公の淫乱、頗る殷の紂王の無道に相似たり、君仁を行はせ給ひて、これを亡ぼされんに何の子細か候ふべき」と、禅門をば文王の徳に比し、我が身をば太公望に准へて、時節に付けて申しけるを、信ぜられけるこそ愚かなれ。さればとて禅門の行迹、泰伯が有徳の甥、文王に譲りし仁にも非ず。また周公の無道の兄、管叔を討たせし義にも非ず。権道覇業、両つながら欠けたる人とぞ見へたりける。
古を引いて今の世を見るに、(足利義詮。足利尊氏の嫡男。[羽林]=[近衛府の唐名。特に近衛府の中将・少将の唐名]。[相公]=[宰相の敬称])の淫乱は、まるで殷の紂王(殷の第三十代王)の無道と同じです、君よ仁を行われて、これを亡ぼされるのに何を躊躇されることがございましょう」と、禅門(足利直義。足利尊氏の弟)を文王(中国周朝の始祖)の徳に比し、我が身を太公望(中国周の軍師、後に斉の始祖)に準えて、折に付けて申すのを、信じることこそ愚かなことでした。なれば禅門の行迹([人がおこなってきた事柄])は、泰伯(呉の祖。文王の伯父)が有徳の甥である、文王に国を譲った仁でもありませんでした。また周公(周の政治家。文王の四男)が無道の兄、管叔(文王の三男)を討った義でもありませんでした。権道([手段・方法は道に外れているが、結果からみて正道にかなっていること])覇業([力をもって天下を支配すること])の、二つとも欠けていたとしか思えませんでした。
(続く)