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「太平記」三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事(その12)

秀郷ひでさと都にかへつて後この絹を切つて使ふに、更に尽くる事なし。俵は中なる入れ物を、取れども取れども尽きざりける間、財宝倉に満ちて衣裳いしやう身に余れり。ゆゑにその名を俵藤太たはらとうだとは言ひけるなり。これは産業さんげふたからなればとてこれを倉廩さうりんに収む。鐘は梵砌ぼんぜいの物なればとて三井寺みゐでらへこれを奉る。文保ぶんほう二年三井寺炎上の時、この鐘を山門へ取り寄せて、朝夕これを撞きけるに、敢へて少しも鳴らざりける間、山法師やまほふしども、「憎し、その儀ならば鳴るやうに撞け」とて、鐘木しもくを大きにこしらへて、二三十人にさんじふにん立ち懸かりて、割れよとぞ撞きたりける。その時この鐘海鯨くぢらの吼ゆる声を出だして、「三井寺へ行かふ」とぞ鳴いたりける。山徒いよいよこれを憎みて、無動寺むどうじの上よりして数千丈すせんぢやう高き岩の上を転ばかしたりける間、この鐘微塵みぢんに砕けにけり。今は何の用にか立つべきとて、その割れを取り集めて本寺へぞ送りける。ある時一尺ばかりなる小蛇来たつて、この鐘を尾を以つて叩きたりけるが、一夜の内にまた本の鐘になつて、傷付ける所一つもなかりけり。されば今に至るまで、三井寺にあつてこの鐘の声を聞く人、無明長夜むみやうぢやうやの夢を驚かして慈尊じそん出世の暁を待つ。末代の不思議、奇特きどくの事どもなり。




秀郷(藤原秀郷。平安時代中期の貴族・武将)は都に帰った後この絹を切って使いましたが、尽きることはありませんでした。俵は中の物を、取っても取っても尽きませんでしたので、財宝は倉に満ちて衣裳は身に余るほどでした。そういう訳でその名を俵藤太と呼ぶのです(俵=田原の由来は諸説あってはっきりしないが)。これは産業([なりわい])の宝ということで、倉廩([米などの穀物を蓄えておく蔵])に納めました。鐘は梵砌([寺院])の物でしたので、三井寺(現滋賀県大津市にある園城寺)にこれを奉納しました。文保二年(1318)の三井寺炎上の時、この鐘を山門(延暦寺)に移して、朝夕これを撞きましたが、まったく鳴らなかったので、山法師([延暦寺の僧])どもは、「どうして鳴らぬ、そういうことならば鳴るまで撞いてやる」と、大きな鐘木を作って、二三十人がかりで、割れよとばかり撞きました。その時この鐘は海鯨が吼えるほどの声を出して、「三井寺へ帰りたい」と鳴きました。山徒はますまる鐘を憎んで、無動寺(延暦寺東塔の一。現滋賀県大津市)の上から数千丈もある高い岩の上へ落としたので、鐘は微塵に砕けました。
もはや何の役にも立つまいと、その割れを取り集めて本寺(園城寺)に送りました。ある時一尺ばかりの小蛇が現れて、この鐘を尾で叩きましたが、一夜の内にまた本の鐘になって、傷は一つもありませんでした。こうして今に至るまで、鐘は三井寺にあってこの鐘の声を聞く人は、無明長夜([悟りの境地に達しないこと])の夢を驚かして慈尊出世([釈迦の入滅後五十六億七千万年の後、弥勒菩薩がこの世に現れること])の暁を待つのです。末代の不思議、奇特なことでした。


続く


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by santalab | 2016-07-12 17:16 | 太平記 | Comments(0)

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