義貞朝臣弓杖にすがり下知されけるは、「敵の勢に御方を合はすれば、大海の一滴、九牛が一毛なり。ただ世の常の如くに軍をせば、勝つ事を得難し。相互ひに面を知り知られたらんずる侍ども、五十騎づつ手を分けて、笠符を取り捨て、幡を巻いて、敵の中に紛れ入り、ここかしこに控へ控へ、しばらく相待つべし。将軍塚へ上せつる勢、すでに軍を始むと見ば、この陣より兵を進めて戦はしむべし。その時に至つて、御辺たち敵の前後左右に旗を差し上げて、馬の足を静めず、前にあるかとせば後ろへ抜け、左にあるかとせば右へ廻つて、七縦八横に乱れて敵に見するほどならば、敵の大勢は、かへつて御方の勢に見へて、同士打ちをするか、引いて退くか、尊氏この二つの中を出づべからず」。韓信が謀を出だしかば、諸大将の中より、逞兵五十騎づつ選り出だして、二千余騎各々一様に、中黒の旗を巻いて、文を隠し、笠符を取つて袖の下に収め、三井寺より引き遅れたる勢の真似をして、京勢の中へぞ馳せ加はりける。
義貞朝臣(新田義貞)が弓杖に寄りかかって下知するには、「敵の勢に味方を比べれば、大海の一滴、九牛の一毛である。ただ世の常の軍をしたところで、勝つことは叶わぬ。互いに面を知られておらぬ侍ども、五十騎ずつ手を分けて、笠符を取り捨て、旗を巻いて、敵の中に紛れ入り、ここかしこに控え、しばらく待て。将軍塚(現京都市東山区華頂山上にある塚)に上せた勢が、軍を始めたと見れば、この陣より兵を進めて戦わせる。その時になれば、お主たちは敵の前後左右に旗を差し上げて、馬の足を休ませず、前にあるかと思えば後ろへ抜け、左にあるかと思えば右へ廻って、七縦八横に乱れて敵に見せよ、敵の大勢は、味方の勢と思い、同士討ちをするか、引いて退くか、尊氏(足利尊氏)の軍はこのどちらかとなるであろう」。韓信(秦末から前漢初期にかけての武将)の謀によって、諸大将の中より、逞兵([たくましく勇ましい兵士])を五十騎ずつ選び出して、二千余騎各々一様に、中黒(大中黒。新田氏の家紋)の旗を巻いて、紋を隠し、笠符を取って袖の下に隠し、三井寺(現滋賀県大津市にある園城寺)より引き遅れた勢の振りをして、京勢の中に馳せ加わりました。
(続く)