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「太平記」建武二年正月十六日合戦事(その5)

敵かかるはかりことありとは、将軍思し寄り給はず、宗とのさぶらひどもに向かふて下知されけるは、「新田はいつも平場ひらばの駆けをこそ好むと聞きしに、山を後ろに当てて、やがても駆け出でぬは、いかさま小勢のほどを敵に見せじと思へるものなり。将軍塚しやうぐんづかの上に取り上がりたる敵を置いてはいつまでか守り上げるべき。師泰もろやすかしこに馳せ向かつて追ひ散らせ」とのたまひければ、越後ゑちごかみ畏つて、「うけたまはり候ふ」とまうして、武蔵・相摸の勢二万余騎を率して、双林寺さうりんじ中霊山なかりやうぜんとより、二手になつてぞ上がつたりける。ここには脇屋右衛門うゑもんすけ・堀口美濃のかみ大館おほたち左馬の助・結城ゆふき上野入道以下いげ三千余騎にて向かひたりけるが、その中より逸物いちもつの射手六百余人を選つて、馬より下ろし、小松の陰を木楯こだてに取つて、差し詰め引き詰め散々にぞ射させたりける。けはしき山を上がり兼ねたりける武蔵・相摸の勢ども、物の具を通されて矢場やにはに伏し、馬を射られて跳ね落とされける間、少し猶予ゆよして見へけるところを、「得たり賢し」と、三千余騎のつはものども抜き連れて、大山のくづるるが如く、真つさかさまに落とし懸けたりける間、師泰もろやすが兵二万余騎、一足をも貯めず、五条河原かはらへさつと引き退く。ここにて、杉本の判官はうぐわん・曾我そが二郎左衛門じらうざゑもんも討たれにけり。




敵がそのような謀を企てているとは、将軍(足利尊氏)は思いも寄らず、主だった侍どもに向かって下知するには、「新田はいつも平場の駆けを好むと聞いておるが、山を後ろに当てて、たちまち駆け出ぬとは、きっと小勢のほどを敵に見せまいと思ってのことであろう。将軍塚(現京都市東山区華頂山上にある塚)の上に上がった敵を置いていてはいつまで守ることができよう。師泰(高師泰)よかしこに馳せ向かって追い散らせ」と申せば、越後守(師泰)は畏り、「承りました」と申して、武蔵・相摸の勢二万余騎を率して、双林寺(雙林寺。現京都市東山区にある寺院)と中霊山(現京都市東山区)より、二手になって上りました。ここには脇屋右衛門佐(脇屋義助よしすけ)・堀口美濃守(堀口貞満さだみつ)・大館左馬助(大舘氏明うぢあき)・結城上野入道(結城宗広むねひろ)以下三千余騎で向かっていましたが、その中より逸物の射手六百余人を選って、馬から下ろし、小松の陰を木楯に取って、差し詰め引き詰め散々に射させました。険しい山を上がり兼ねた武蔵・相摸の勢どもは、物の具([武具])を射通されてたちまちに伏し、馬を射られて跳ね落とされました、少しためらうように見えるところを、「しめた」と、三千余騎の兵どもを抜き連れて([大勢の者が一斉に刀を抜く])、まるで大山が崩れるように、真っさかさまに落とし駆けたので、師泰(高師泰)の兵二万余騎は、一足も留め得ず、五条河原へさっと引き退きました。ここで、杉本判官・曾我二郎左衛門が討たれました。


続く


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by santalab | 2016-07-22 08:22 | 太平記 | Comments(0)

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