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「太平記」正月二十七日合戦事(その1)

かかるところに去年十二月に、一宮関東くわんとうへ御下りありし時、搦め手にて東山とうせん道より鎌倉へ御下りありし大智院だいちゐんの宮・弾正尹だんじやうのゐんの宮、竹下たけのした・箱根の合戦には、合図あひづ相違して逢はせ給はざりしかども、甲斐・信濃・上野かうづけ下野しもつけの勢ども馳せまゐりしかば、御勢雲霞の如くになつて、鎌倉へ入らせ給ふ。ここにて事のやうを問へば、「新田、竹下・箱根の合戦に打ち負けて引つかへす。尊氏朝臣逃ぐるを追うて上洛しやうらくされぬ。その後奥州の国司顕家あきいへきやう、また尊氏朝臣の後を追うて、攻め上られさふらひぬ」とぞまうしける。「さらばいかさま道にても新田踏み留まらば合戦ありぬべし。鎌倉に逗留とうりうすべき様なし」とて、公家には洞院とうゐん左衛門さゑもんかみ実世さねよ・持明院右衛門うゑもんの督入道・信濃の国司堀河ほりかはの中納言・その中将ちゆうじやう基隆もとたか二条にでう少将為次ためつぐ、武士には、嶋津上野入道・同じき筑後ちくご前司ぜんじ・大伴・猿子ましこの一党・落合おちあひの一族・相場あひば石谷いしがえ纐纈かうけつ伊木いき津子つし・中村・村上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁、これらを宗との者として都合つがふその勢二万余騎、正月二十日の晩景ばんげいに東坂本にぞ着きにける。




そうこうするところに去年十二月に、一宮(尊良たかよし親王)が関東に下られた時、搦め手として東山道より鎌倉に下った大智院宮(第八十四代順徳天皇の曾孫で、第九十一代後宇多天皇の猶子、忠房ただふさ親王)・弾正尹宮(第八十代高倉天皇の玄孫、惟明これあきら親王の曾孫らしい)、竹下(現静岡県駿東すんとう郡小山町竹之下)・箱根の合戦には、合図相違して合体することはありませんでしたが、甲斐・信濃・上野・下野の勢ども馳せ参ったので、軍勢は雲霞の如くになって、鎌倉に入られました。ここで軍の様子を訊ねると、「新田(新田義貞)は、竹下・箱根の合戦に打ち負けて引き返しました。尊氏朝臣(足利尊氏)は逃げる軍を追って上洛しました。その後奥州国司顕家卿(北畠顕家)が、また尊氏朝臣の後を追って、攻め上られました」と申しました。「ならば必ずや道中で新田が踏み留まることあれば合戦があろう。鎌倉に逗留すべきではない」と申して、公家には洞院左衛門督実世(洞院実世)・持明院右衛門督入道(持明院基行?)・信濃国司堀川中納言(藤原光継みつつぐ)・園中将基隆(園基隆)・二条少将為次(二条為次)、武士には、嶋津上野入道・同じく筑後前司・大伴・益子一党・落合一族・相場・石谷・纐纈・伊木・津子・中村・村上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁、これらを主だった者として都合その勢二万余騎は、(建武二年(1335))正月二十日の晩景([夕刻])に東坂本(現滋賀県大津市)に着きました。


続く


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by santalab | 2016-07-29 08:26 | 太平記 | Comments(0)

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