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「太平記」正月二十七日合戦事(その2)

官軍くわんぐんいよいよいきほひを得て翌日にもやがて京都へ寄せんと議しけるが、打ち続き悪日あくにちなりける上、あまりに強く乗つたる馬どもなれば、皆すくみてさらに働き得ざりける間、とにかくに延引して、今度の合戦は、二十七にじふしち日にぞ定められける。すでにその日になりぬれば、人馬を休めん為に、宵より楠木・結城ゆふき伯耆はうき、三千余騎にて、西坂を下り下がつて、下松さがりまつに陣を取る。顕家あきいへきやうは三万余騎にて、大津を経て山科やましなに陣を取る。洞院左衛門さゑもんかみ二万余騎にて赤山せきさんに陣を取る。山徒は一万余騎にて竜華越りゆうげごえまはつて鹿谷ししのたにに陣を取る。新田左兵衛さひやうゑかみ兄弟は二万余騎の勢を率し、今道いまみちより向かつて、北白河に陣を取る。大手・搦め手都合つがふ十万三千余騎、皆よひより陣を取り寄せたれども、敵に知らせじとわざ篝火かがりびをば焚かざりけり。合戦は明日辰の刻と定められけるを、機早きばやなる若大衆わかだいしゆども、武士にせんをせられじとや思ひけん、まだ卯の刻の始めに神楽岡かぐらをかへぞ寄せたりける。この岡には宇都宮・紀清きせい両党城郭を構へてぞ居たりける。




官軍はますます勢いを得て翌日にもやがて京都へ寄せようと話し合いましたが、打ち続き悪日である上、あまりに激しく乗った馬でしたので、皆竦んでまったく役に立ちそうにもなく、ともかく延引して、今度の合戦は、(建武二年(1335)一月)二十七日に定められました。すでにその日になると、人馬を休めるために、宵より楠木(楠木正成)・結城(結城親光ちかみつ?)・伯耆(名和長年ながとし)は、三千余騎で、西坂(雲母坂=現京都市左京区修学院の修学院離宮の脇より比叡山の山頂に至る古道)を下りて、下松(現京都市左京区にある一乗寺)に陣を取りました。顕家卿(北畠顕家)は三万余騎で、大津(現滋賀県大津市)を経て山科(現京都市山科区)に陣を取りました。洞院左衛門督(洞院実世さねよ)は二万余騎で赤山(現京都市左京区にある赤山禅院)に陣を取りました。山徒([延暦寺の僧])は一万余騎で竜華越(途中越。現京都市左京区大原と滋賀県大津市の境に位置する峠)を廻って、鹿ヶ谷(現京都市左京区)に陣を取りました。新田左兵衛督兄弟(新田義貞・脇屋義助よしすけ)は二万余騎の勢を率し、今路(志賀越道。京の七口である荒神口から、近江に至る街道)より向かって、北白河に陣を取りました。大手([敵の正面を攻撃する軍勢])・搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])都合十万三千余騎は、皆宵の内より陣を取りましたが、敵に知られまいと篝火を焚きませんでした。合戦は明日の辰の刻([午前八時頃])と定めましたが、気早の若大衆([若い僧])どもは、武士に先じられまい思ったか、まだ卯の刻([午前六時頃])の初めに神楽岡(現京都市左京区南部の吉田山の異称)に寄せました。この岡には宇都宮(宇都宮公綱きんつな)・紀清両党(宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団)が城郭を構えていました。


続く


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by santalab | 2016-08-01 08:43 | 太平記 | Comments(0)

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