楠木帯刀は敵の馬烟を見て、陣の在所四箇所にありと見てければ、多からぬ我が勢を数多に分けば、中々可悪とて、本五手に分けたりける二千余騎の勢を、ただ一手に集めて、瓜生野へ打つて懸かる。この陣東西南北野遠くして疋馬蹄を労せしかば、両陣互ひに射手を進めて、鬨の声を一声挙ぐるほどこそあれ、敵御方六千余騎一度にさつと懸け合つて、思ひ思ひに相戦ふ。半時許り切り合つて、互ひに勝鬨を上げ、四五町がほど両方へ引き分かれ、敵御方を見渡せば、両陣過半滅びて、死人戦場に満ち満ちたり。また大将山名伊豆の守、切疵射疵七所まで負はれたれば、兵前に立ち隠して、疵を吸ひ血を拭ふほど、少し猶預したる処へ、楠木が勢の中より、年の程二十許りなる若武者、和田新発意源秀と名乗つて、洗ひ革の鎧に、大太刀小太刀二振り帯いて、六尺余りの長刀を小脇に差し挟み、閑々と馬を歩ませて小唄歌ひて進みたり。その次に一人、これも法師武者の長七尺余りもあるらんと思えたるが、阿間了願と名乗つて、唐綾威の鎧に小太刀帯いて、柄の長さ一丈許りに見へたる鑓を馬の平頚に引き副へて、少しも不擬議懸け出でたり。その勢事柄、世の常の者には非ずと見へながら、跡に続く勢なければ、あれやと許り云ひて、山名が大勢さしも驚かで控へたる中へ、ただ二騎つと懸け入つて、前後左右を突いて廻るに、小手の迦れ・髄当の余り・頂辺の直中・内兜、一分も空きたる所を外さず、矢庭に三十六騎突き落として、大将に近付かんと目を賦る。
楠木帯刀(楠木正行。楠木正成の嫡男)は敵の馬煙を見て、陣の在所は四箇所あると見て、多くない我が勢を多く分けては、よろしくないと、元は五手に分けた二千余騎の勢を、ただ一手に集めて、瓜生野(遠里小野?現大阪市住吉区)へ打って懸かりました。この陣は東西南北野から遠く離れて馬は進むのに難儀したので、両陣は互いに射手を進めて、鬨の声を一声上げたかと思えば、敵味方六千余騎が一度にさっと駆け合つて、思い思いに戦いました。半時許り切り合って、互いに勝鬨を上げ、四五町(約400〜500m)ばかり両方へ引き分かれ、敵味方を見渡せば、両陣ともに過半を失って、死人が戦場に満ち満ちていました。大将山名伊豆守(山名時氏)も、切疵射疵を七所負ったので、兵が前に立ち隠して、疵を吸い血を拭うほど、少し休むところへ、楠木(正行)の勢の中より、年のほど二十許りの若武者が、和田新発意源秀(和田賢秀)と名乗って、洗い皮([洗い皮威]=[薄紅色に染めた鹿のなめし革で威した鎧])の鎧に、大太刀小太刀二振り佩いて、六尺余りの長刀を小脇に差し挟み、ゆっくりと馬を歩ませて小唄を歌いながら進み出ました。その次に一人、これも法師武者で丈は七尺余りもあると見えましたが、阿間了願と名乗って、唐綾威([唐綾を細く畳み、芯に麻を入れて威したもの])の鎧に小太刀を佩いて、柄の長さ一丈許りに思われる槍を馬の平首([馬の首の側面])に引き添えて、少しも躊躇せず駆け出ました。その勢い姿は、世の常の者ではないと見えながら、後に続く勢はありませんでしたので、あれを見ろとばかり言って、山名(時氏)の大勢はさほど驚かず控える中へ、ただ二騎があっという間に駆け入って、前後左右を突いて廻ると、小手の外れ・臑当の余り・頂辺([兜の鉢の頂き])の真ん中・内兜([兜の眉庇の内側。額の部分])、わずかに空いた所をさず、たちまちに三十六騎を突き落として、大将に近付こうと目を配りました。
(続く)