播磨の国住人小松原刑部左衛門は、主の三河の守討たれたる事をも不知、天神の松原まで落ち延びたりけるが、三河の守の乗り給ひたりける馬の平頚、二太刀切られて放されたりけるを見て、「さては三河の守殿は討たれ給ひけり。落ちては誰が為に命を可惜」とて、ただ一騎天神の松原より引つ返し、向かふ敵に矢二筋射懸けて、腹掻き切つて死ににけり。その外の兵ども、親討たれども子は不知、主討ち死にすれども郎従これを不助、物の具を脱ぎ棄て弓を杖に突いて、夜中に京へ逃げ上る。見苦しかりし有様なり。
播磨国の住人小松原刑部左衛門は、主の三河守(山名兼義。山名時氏の弟)が討たれたのも知らず、天神(現大阪市北区にある大阪天満宮)の松原まで落ち延びましたが、三河守が乗っていた馬の平首([馬の首の側面])が、二太刀切られて放たれているのを見て、「さては三河守殿は討たれたか。落ちて誰のために命を惜しむべき」と、ただ一騎天神の松原より引き返し、向かう敵に矢を二筋射懸けて、腹を掻き切って死にました。そのほかの兵どもは、親が討たれるとも子は知らず、主が討ち死にすれども郎従([家来])は主を助けず、物の具([武具])を脱ぎ捨て弓を杖に突いて、夜中に京へ逃げ上りました。なんとも情けないことでした。
(続く)