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「太平記」師冬自害事付諏方五郎事(その3)

さるほどに城の後ろより破れて、敵四方しはうより追ひしかば、諏方すはの五郎と播州とは手に手を取り違へ、腹掻き切つて臥し給ふ。この外義を重んじ名をしむさぶらひども六十四人、同時に皆自害して、名を九原きうげんの上の苔に残し、かばねを一戦の場の土に晒さる。その後は東国・北国残りなく、高倉殿の御方へなりて候ふ。「世は今はさてとこそ見へて候へ」と、泣く泣く執事にぞ語られける。筑紫九国は兵衛ひやうゑすけ殿に従ひ付きぬと聞こゆ。四国は細川陸奥のかみしよくしてすでに須磨の大蔵谷おほくらだにの辺まで寄せたりと告げたり。今は東国をこそ、さりともと頼みたれば、師冬さへ討たれにけり。さてはいづくへか落ち誰をか頼むべきとて、さしも勇みし人々の気色、皆心細く見へたりける。命はよく棄て難きものなりけり。執事兄弟、かくてももし命や助かると、心も起こらぬ出家して、師直もろなほ入道道常、師泰もろやす入道道勝とて、なし衣にげ鞘提げて、降人かうにんになつて出でければ、見る人毎に爪弾きして、出家の功徳くどく莫太ばくだいなれば、後生ごしやうの罪はまぬかるとも、今生こんじやうの命は助かり難しと、欺かぬ人はなかりけり。




やがて城の後ろより破れて、敵が四方より攻めて来たので、諏方五郎と播磨守(高師冬もろふゆ)は手に手を取り違え、腹を掻き切って臥しました。このほか忠義を重んじ名を惜しむ侍ども六十四人が、同時に皆自害して、名を九原([中国の春秋時代、しんけい・大夫の墓があった地名])の上の苔に残し、屍を一戦の場の土に晒しました。その後は東国・北国は残りなく、高倉殿(足利直義ただよし。足利尊氏の弟)の味方になりました。(足利尊氏の四男、足利基氏もとうぢは)「世は今はこれまでと思われる」と、泣く泣く執事に語りました。筑紫九国は兵衛佐殿(足利直冬ただふゆ。足利尊氏の子で足利直義の猶子となった)に従い付いたと聞こえました。四国は細川陸奥守(細川顕氏あきうぢ)に属してすでに須磨の大蔵谷(現兵庫県明石市)の辺まで寄せたと知らせました。東国ばかりは、よもや背くまいと頼みにしていましたが、師冬(高師冬)さえ討たれました。さてはどこへにか落ち誰を頼むべきと、あれほど勇んでいた人々の気色も、皆心細く見えました。命は捨て難いものです。執事兄弟は、もしや命が助かるのではないかと、発心もなく出家して、師直(高師直)入道道常、師泰(高師泰。高師直の弟)入道道勝と号して、裳になした衣([裳衣]=[喪中に着る衣服])に提げ鞘([僧や茶人などが守り刀としてたずさえる小刀])を提げて、降人になって出ましたので、見る人は皆爪弾き([嫌悪・軽蔑・非難などの気持ちを表すしぐさ])をしました、出家の功徳は莫大なれば、後生の罪は免れるとも、今生の命は助かり難しと、嘆かぬ人はいませんでした。


続く


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by santalab | 2016-09-22 09:29 | 太平記 | Comments(0)

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