ここにて人に尋ぬれば、「脇屋殿は早や宵に播磨へ引かせ給ひて候ふなり」と申しける間、さては舟坂をば通り得じとて、先日搦め手の廻りたりし三石の南の山路を、たどるたどる夜もすがら越えて、坂越の浦へぞ出でたりける。夜いまだ深かりければ、このまま少しの逗留もなくて打つて通らば、 新田殿には安く追つ着き奉るべかりけるを、子息高徳が先の軍に負うたりける疵、いまだ愈えざりけるが、馬に振られけるに依つて、目昏く肝消して、馬にも堪らざりける間、坂越の辺に相知つたる僧のありけるを尋ね出だして、預け置きけるほどに、時刻押し遷りければ、五月の短か夜明けにけり。
ここで人に訊ねると、「脇屋殿(脇屋義助。新田義貞の弟)はすでに宵に播磨に引き退かれました」と申したので、さては船坂(現岡山・兵庫県境にある峠)は通れまいと、先日搦め手が迂回した三石(現岡山県備前市)の南の山路を、たどるたどる夜もすがら越えて、坂越の浦(現兵庫県赤穂市)に出ました。夜はまだ深かったので、このまま少しも逗留せず打って通れば、新田殿(新田義貞)には容易く追い付くことができましたが、子息高徳(児島高徳)が先の軍で負った疵が、まだ愈えていませんでしたので、馬に揺られて、目は眩み肝は消えて、馬に乗っていられなくなりました、坂越の辺に知った僧がいたので尋ね出して、預け置くほどに、時刻は押し移って、五月の短か夜は明けました。
(続く)