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「太平記」正成下向兵庫事(その1)

尊氏たかうぢきやう直義なほよし朝臣大勢を率して上洛しやうらくの間、用害ようがいの地に於いて防ぎ戦はん為に、兵庫に引き退きぬる由、義貞よしさだ朝臣早馬を参らせて、内裡たいりに奏聞ありければ、主上しゆしやうおほきに御騒ぎあつて、楠木判官正成まさしげを召されて、「急ぎ兵庫へ罷り下り、義貞に力を合はせて合戦を致すべし」と仰されければ、正成畏つて奏しけるは、「尊氏の卿すでに筑紫九国の勢を率して上洛候ふなれば、定めて勢は雲霞の如くにぞ候ふらん。御方の疲れたる小勢を以つて、敵の機に乗つたる大勢に懸け合つて、世の常の如くに合戦を致し候はば、御方決定けつぢやう打ち負け候ひぬと思へ候ふなれば、新田殿をもただ京都へ召し候ひて、前の如く山門へ臨幸なり候ふべし。正成も河内へ罷り下り候ひて、畿内の勢を以つて河尻かはじりを差し塞ぎ、両方より京都を攻めて兵粮ひやうらうを疲らかし候ふほどならば、敵は次第に疲れて落ち下り、御方は日々に随つて馳せ集まり候ふべし。その時に当たつて、新田殿は山門より押し寄せられ、正成は搦め手にて攻め上り候はば、朝敵てうてきを一戦に滅ぼす事ありぬと思え候ふ。新田殿も定めてこの了簡れうけん候ふとも、路次ろしにて一軍ひといくさもせざらんは、無下に言ふ甲斐なき人の思はんずるところを恥ぢて、兵庫に支へられたりと思え候ふ。合戦はとてもかくても、始終の勝ちこそ肝要にて候へ。よくよく遠慮を廻らされて、公議を定めらるべきにて候ふ」と申しければ、「まことに軍旅の事はつはものゆづられよ」と、諸卿僉議せんぎありけるに、重ねて坊門ばうもん宰相さいしやう清忠きよただ申されけるは、「正成が申すところもそのいはれありといへども、征罰の為に差し下されたる節度使せつどし、いまだ戦ひをなさざるさきに、帝都を捨てて、一年の内に二度まで山門へ臨幸ならん事、かつうは帝位を軽んずるに似たり、または官軍くわんぐんの道を失ふところなり。たとひ尊氏筑紫勢を率して上洛しやうらくすとも、去年東八箇国を従へて上りし時の勢にはよも過ぎし。およそ戦ひの始めより敵軍敗北の時に至るまで、御方小勢なりといへども、毎度大敵を攻め靡かずと言ふ事なし。これまつたく武略の勝れたるところにはあらず、ただ聖運の天に叶へるゆゑなり。しかればただ戦ひを帝都の外に決して、敵を斧鉞ふゑつの下に滅ぼさん事何の子細かあるべきなれば、ただ時を替へず、楠木罷り下るべし」とぞ仰せ出だされける。正成、「この上はさのみ異儀を申すに及ばず」とて、五月十六日に都を立つて五百余騎にて兵庫へぞ下りける。




尊氏卿(足利尊氏)・直義朝臣(足利直義ただよし。足利尊氏の弟)が大勢を率して上洛したので、要害の地に於で防ぎ戦うために、兵庫(現兵庫県神戸市兵庫区)に引き退いたと、義貞朝臣(新田義貞)より早馬を参らせて、内裏に奏聞がありました、主上(第九十六代後醍醐天皇)はたいそう驚いて、楠木判官正成(楠木正成)を召されて、「急ぎ兵庫へ下り、義貞と力を合わせて合戦を致せ」と命じたので、正成は畏って申し上げて、「尊氏卿が筑紫九国の勢を率して上洛するのならば、必ずや勢は雲霞の如くでございましょう。味方の疲れた小勢をもって、敵の機に乗った大勢と駆け合い、世の常の如くに合戦を致せば、味方は必ずや打ち負けると思われます、新田殿をもただ京都へ召されて、前の如く山門(延暦寺)に臨幸なさいますよう。正成も河内へ下り、畿内の勢をもって河尻(現兵庫県尼崎市)を差し塞ぎ、両方より京都を攻めて兵粮を費やせれば、敵は次第に疲れて落ち下り、味方は日々に従って馳せ集まりましょう。その時を待って、新田殿は山門より押し寄せ、この正成は搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])として攻め上れば、朝敵を一戦に滅ぼすことができると思われます。新田殿もきっと同じ了簡([考え])でしょうが、路次にて一軍もしなくては、申す甲斐もなき人と思われることを恥じて、兵庫で支えておると思われます。合戦は何にせよ、勝つことが肝要でございます。よくよく遠慮を廻らされて、公議を定められますよう」と申せば、「まことに軍旅のことは兵に譲られよ」と、諸卿の僉議がありましたが、重ねて坊門宰相清忠(坊門清忠)が申すには、「正成が申すところももっともなことではあるが、征罰のために下された節度使([元は中国、唐・五代の軍職。府兵制の崩壊後、辺境に置かれた傭兵軍団の総司令官])が、いまだ戦いもせざる前に、帝都を捨てて、一年の内に二度まで山門(延暦寺)に臨幸されることは、帝位を軽んずるばかりでなく、官軍の道を失うことではないか。たとえ尊氏(足利尊氏)が筑紫勢を率して上洛するとも、去年東八箇国を従えて京に上った時の勢にはよもや過ぎまい。戦いの始まりより敵軍敗北の時にいたるまで、味方は小勢ではあるが、毎度大敵を攻め伏せずということなし。これは決して武略に勝れているからではなく、ただ聖運が天に叶っておるからである。なればただ戦いを帝都の外に決して、敵を斧鉞([征伐])し滅ぼすことに躊躇することはない、ただ時を移さず、楠木(正成)を下すべきです」と申しました。正成は、「この上は何ら異儀を申すに及びません」と申して、五月十六日に都を立って五百余騎で兵庫に下りました。


続く


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by santalab | 2016-10-01 08:55 | 太平記 | Comments(0)

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